のんきなことを言った。母親の病気はまだすっかり治らなかった。もうかれこれ十一二日目になる。按摩《あんま》を頼んでもませてみたり、ご祈祷を近所の人がやって来て上げてくれたりした。ついでに清三もこのご祈祷を上げてもらった。
清三はこのころから夜が眠られなくて困った。いよいよ不眠性の容易ならざる病状が迫ってきたことを医師はようやく気がつき始めた。旅順の海戦――彼我《ひが》の勝敗の決した記憶すべき十日の海戦の詳報のしきりに出るころであった。アドミラル、トオゴーの勇ましい名が、世界の新聞雑誌に記載せらるるころであった。
医師《いしゃ》はある日やって来て、あわてて言った。「どうも永久的衰弱ですからなア」こう言ってすぐ言葉を続けて、「あまり無理をしてはいけません。第一、少しよくなっても、一里半も学校に通ってはいけません。一年ぐらい海岸にでも行っているといいですがな」
それから葡萄酒《ぶどうしゅ》を飲用することを勧めた。
五十七
医師の言葉を書いて、ぜひ九月の学期までに近い所に転任したいが、君に一任してよきや、みずから運動すべきやと郁治《いくじ》のもとに書いてやると、折りかえして返事が来て、視学に直接に手紙をやれ、羽生の校長にも聞いてみろ、自分もそのうち出かけて運動してやると書いてあった。
だんだん秋風が立ち始めた。大家《おおや》で飼《か》っておいたくさひばりが夕暮れになるといつもいい声を立てて鳴いた。床柱《とこばしら》の薔薇《ばら》の一|輪※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《りんざ》し、それよりも簀戸《すど》をすかして見える朝顔の花が友禅染《ゆうぜんぞ》めのように美しかった。
一日《あるひ》、午後四時ごろの暑い日影を受けて、例の街道を弥勒《みろく》に行く車があった。それには清三が乗っていた。月の俸給を受け取るためにわざわざ出かけて来たのであった。学校はがらんとして、小使もいなかった。関さんも、昨日浦和に行ったとて不在《るす》であった。
宿直室にはなかば夕日がさしとおった。テニスをやるものもないとみえて、網もラッケットも縁側の隅にいたずらに束《たば》ねられてある。事務室の硯箱《すずりばこ》の蓋《ふた》には塵埃《ちり》が白く、椅子は卓《テーブル》の上に載せて片づけられたままになっている。影を長く校庭にひいた清三のやせはてた姿は、しずかに廊下をたどって行った。
教室にはいってみた。ボールドには、授業の最後の時間に数学を教えた数字がそのままになっている。[#ここから横書き]12+15=27[#ここで横書き終わり]と書いてある。チョークもその時置いたままになっている。ここで生徒を相手に笑ったり怒ったり不愉快に思ったりしたことを清三は思い出した。東京に行く友だちをうらやみ、人しれぬ失恋の苦しみにもだえた自分が、まるで他人でもあるかのようにはっきりと見える。色の白い、肉づきのいい、赤い長襦袢《ながじゅばん》を着た女も思い出された。
オルガンが講堂の一隅《かたすみ》に塵埃《ちり》に白くなって置かれてあった。何か久しぶりで鳴らしてみようと思ったが、ただ思っただけで、手をくだす気になれなかった。
やがて小使が帰って来た。かれもちょっと見ぬ間に、清三のいたく衰弱したのにびっくりした。
じろじろと不気味《ぶきみ》そうに見て、
「どうも病気《あんべい》がよくねえかね?」
「どうもいかんから、近いところに転任したいと思っているよ……今度の学期にはもう来られないかもしれない。長い間、おなじみになったが、どうもしかたがない……」
「それまでには治るべいかな」
「どうもむずかしい――」
清三は嘆息《ためいき》をした。
小川屋にはもう娘はいなかった。この春、加須《かぞ》の荒物屋に嫁《かたづ》いて行った。おばあさんが茶を運んで来た。
すぐ目につけて、
「林さんなア、どうかしたかね」
「どうも病気が治らなくって困る」
「それア困るだね」
しみじみと同情したような言葉で言った。夕飯《ゆうめし》は粥《かゆ》にしてもらって、久しぶりでさい[#「さい」に傍点]の煮つけを取って食った。庭には鶏頭《けいとう》が夕日に赤かった。かれは柱によりかかりながら野を過ぎて行く色ある夕べの雲を見た。
五十八
転任については、郁治《いくじ》も来て運動してくれた。町の高等も尋常《じんじょう》も聞いてみたが、欠員がなかった。弥勒の校長からは、「不本意ではあるが、病気なればしかたがない、いいように取り計らうから安心したまえ」と言って来た。けれど他から見ては、もう教員ができるような体《からだ》ではなかった。
ある日、荻生さんが、母親に、
「どうも今度の病気は用心しないといけないって医師《いしゃ》が言いました
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