はおめでたい」
と清三がまじめに言うと、
「約束をきめておくなんて、君、つまらぬことだよ」
「どうして?」
「だッて、お互いに弱点が見えたりなんかして、中途でいやになることがないとも限らないからね」
「そんなことはいかんよ、君」
「だッてしかたがないさ、そういう気にならんとも限らんから」
「そんなふまじめなことを言ってはいかんよ、君たちのように前から気心《きごころ》も知れば、お互いの理想も知っているのだから、苦情《くじょう》の起こりっこはありゃしないよ。僕なども同じ仲間だから、君らの幸福なのを心から祈るよ、美穂子さんにも久しく会わないけれど、僕がそう言ったッて言ってくれたまえ」
いつもの軽い言葉とは聞かれぬほどまじめなので、
「うむ、そう言うよ」と郁治も言った。
蚊帳《かや》の外のランプに照らされた清三の顔は蒼白《あおじろ》かった。咳《せき》がたえず出た。熱が少し出てきたと言って、枕《まくら》もとに持って来ておいた水で頓服剤《とんぷくざい》を飲んだ。二人の胸には、中学校時代、「行田文学」時代のことが思い出されたが、しかも二人とも何ごとをも語らなかった。郁治の胸にははなやかな将来が浮かんだ。「不幸な友!」という同情の心も起こった。
あまり咳が出るので、背《せなか》をたたいてやりながら、
「どうもいかんね」
「うむ、治らなくって困る」
汗が寝衣《わまき》をとおした。
「石川はどうした?」
と、しばらくしてから、清三がきいた。
「つい、この間、東京から帰って来た」と郁治は言って、「あまり道楽をするものだから、家《うち》でも困って、今度足どめに、いよいよ嫁さんが来るそうだ」
「どこから?」
「なんでも川越の財産家で跡見《あとみ》女学校にいた女だそうだ。容色望《きりょうのぞ》みという条件でさがしたんだから、きっと別嬪《べっぴん》さんに違いないよ」
「先生も変わったね?」
「ほんとうに変わった。雑誌をやってる時分とはまるで違う」
それから同窓の友だちの話がいろいろ出た。窓からは涼しい風がはいる……。
翌朝、郁治が眼をさましたころには、清三は階下《した》で父親を手伝って勝手《かって》もとをしていた。いまさらながら、友の衰弱したのを郁治は見た。小畑に聞いたが、これほどとは思わなかった。朝の膳《ぜん》には味噌汁に鶏卵《たまご》が落としてあった。清三は牛乳一合にパンを少し食った。二人は二階にまたすわってみたが、もうこれといって話もなかった。
郁治が帰る時に、
「それじゃ学校の話、一つ運動してみてくれたまえ」
清三はくり返して頼んだ。
母親の病気ははかばかしくなかった。三度々々食物も満足に咽喉《のど》に通らなかった。父親が商売に出たあとでは、清三がお粥《かゆ》をこしらえたり、好きなものを通りに出て買って来てやったりする。また父親と縁側に東京仕入れの瓜《うり》を二つ三つ桶《おけ》に浮かせて、皮を厚くむいて二人してうまそうに食っていることもある。そういう時には清三は皿に瓜のさいたのを二片三片入れて、食う食わぬにかかわらず、まず母親の寝ている枕もとに置いた。母子《おやこ》の情合《じょうあ》いは病《や》んでからいっそう厚くなったように思われた。どうかすると、清三の顔をじっと見て、母親が涙をこぼしていることもあった。清三はまた清三で、めったに床についたことのない母親の長い病気を気にして医師《いしゃ》にかかることをうるさく勧《すす》めると、「お前の薬代さえたいへんなのに、私までかかっては、それこそしかたがない。私のはもう治るよ、明日は起きるよ」と母親は言った。
二階の一間は新聞が飛ぶほど風が吹き通すこともあれば、裏の木の上に夕月が美しくかかって見えることもあった。けれど東がふさがっているので、朝日にはつねに縁遠く清三は暮らした。朝の眺《なが》めとしては、早起きをした時北窓の雲に朝日が燃えるようにてりはえるのを見るくらいなものであった。
弥勒野《みろくの》はこのごろは草花がいつも盛りであった。清三は関さんに手紙を書いた。「このごろは座敷の運動のみにて、野に遠ざかり居り候へば、草花の盛りも見ず、遺憾《いかん》に候。弥勒野、才塚野《さいづかの》、君の採集にはさぞめづらしき花を加へたまひしならん。秋海棠《しゅうかいどう》今歳《ことし》は花少なく、朝顔もかはり種なく、さびしく暮らし居り候」
毎日二三回ずつの下痢《げり》、胃はつねに激しき渇《かわ》きを覚えた。動かずにじっとしていれば、健康の人といくらも変わらぬほどに気分がよいが、労働すれば、すぐ疲れて力がなくなる。医師《いしゃ》は一週間目に大便の試験をしたが、十二指腸虫は一疋もいず、ベン虫の卵が一つあったばかりであった。けれどこれは寄生虫でないから害はない。ふつう健康体にもよくいる虫だと医師は
前へ
次へ
全88ページ中81ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング