とて、校長は鶏卵《たまご》を十五個くれたが、それは実は病気見舞いのつもりであったらしい。教員たちは、「もうなんのかのと言っても旅順はじきに相違ないから、その時には休暇中でも、ぜひ学校に集まって、万歳を唱《とな》えることにしよう」などと言っていた。清三は八月の月給を月の二十一日にもらいたいということをあらかじめ校長に頼んで、馬車に乗ってかろうじて帰って来た。
 暑中休暇中には、どうしても快復させたいという考えで、清三は医師《いしゃ》を変えてみる気になった。こんどの医師は親切で評判な人であった。診察の結果では、どうもよくわからぬが、十二指腸かもしれないから、一週間ばかりたって大便の試験をしてみようと言った。肺病ではないかときくと、そういう兆候《ちょうこう》は今のところでは見えませんと言った。今のところという言葉を清三は気にした。

       五十六

 滋養《じよう》物を取らなければならぬので、銭《ぜに》もないのに、いろいろなものを買って食った。鯉《こい》、鮒《ふな》、鰻《うなぎ》、牛肉、鶏肉《けいにく》――ある時はごいさぎを売りに来たのを十五銭に負けさせて買った。嘴《くちばし》は浅緑《あさみどり》色、羽は暗褐色《あんかっしょく》に淡褐色《たんかっしょく》の斑点《はんてん》、長い足は美しい浅緑色をしていた。それをあらくつぶして、骨をトントンと音させてたたいた。それにすらかれは疲労《つかれ》を覚えた。
 泥鰌《どじょう》も百匁ぐらいずつ買って、猫にかかられぬように桶《おけ》に重石《おもし》をしてゴチャゴチャ入れておいた。十|尾《ぴき》ぐらいずつを自分でさいて、鶏卵《たまご》を引いて煮て食った。寺の後ろにはこの十月から開通する東武鉄道の停車場ができて、大工がしきりに鉋《かんな》や手斧《ておの》の音を立てているが、清三は気分のいい夕方などには、てくてく出かけて行って、ぽつねんとして立ってそれを見ていることがある。時には向こうの野まで行って花をさがして来ることもある。えのころ、おひしば、ひよどりそう、おとぎりそう、こまつなぎ、なでしこなどがあった。
 新聞にはそのころ大石橋《だいせっきょう》の戦闘詳報が載っていた。遼東《りょうとう》! 遼陽! という文字が至るところに見えた。ある日、母親は急性の胃に侵《おか》されて、裁縫を休んで寝ていた。物を食うとすぐもどした。そして吃逆《しゃくり》も激しく出た。土用のあけた日で、秋風の立ったのがどことなく木の葉のそよぎに見える。座敷にさし入る日光から考えて、太陽も少しは南に回ったようだなどと清三は思った。そこに郁治《いくじ》がひょっくり高等師範の制帽をかぶった姿を見せた。この間うちから帰省していて、いずれ近いうちに新居を訪問したいなどという端書《はがき》をよこしたが、今日は加須《かぞ》まで用事があってやって来たから、ふと来る気になって訪ねたという。郁治は清三のやせ衰えた姿に少なからず驚かされた。それに顔色の悪いのがことに目立った。
 親しかった二人は、夕日の光線のさしこんだ二階の一間に相対してすわった。相変わらず親しげな調子であるが、言葉は容易に深く触《ふ》れようとはしなかった。時々話がとだえて黙っていることなどもあった。
「小畑はこの間日光に植物採集に出かけて行ったよ」
 こんなことを言って、郁治はとだえがちなる話をつづけた。
 清三は、「君、帰ったら、ファザーに一つ頼んでみてくれたまえな。どうもこう体《からだ》が弱っては、一里半の通勤はずいぶんつらいから、この町か、近在かにどこか転任の口はないだろうかッて……。弥勒《みろく》ももうずいぶん古参《こさん》だから、居心地は悪くはないけれど、いかにしても遠いからね、君」
 こう言って転任運動を頼んだ。
 夕餐《ゆうめし》には昨夜猫に取られた泥鰌《どじょう》の残りを清三が自分でさいてご馳走した。母親が寝ているので、父親が水を汲んだり米をたいたり漬《つ》け物を出したりした。
 郁治は見かねてよほど帰ろうとしたが、あっちこっちを歩いて疲れているので、一夜泊めてもらって行くことにした。
「郁《いく》さんがせっかくおいでくだすったのに、あいにく私がこんなふうで、何もご馳走もできなくって、ほんとうに申しわけがない」
 しげしげと母親は郁治の顔を見て、
「郁さんのように、家《うち》のも丈夫だといいのだけれど……どうも弱くってしかたがないんですよ。……それに郁さんなぞは。学校を卒業さえすれば、どんなにもりっぱになれるんだから、母さんももう安心なものだけれど……」
 しみじみとした調子で言った。
 美穂子の話が出たのは、二人が蚊帳《かや》の中にはいって寝てからであった。学校を出るまではお互いに結婚はしないが、親と親との口約束はもうすんだということを郁治は話した。
「それ
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