んの室《へや》で十時過ぎまで話して行くことなどもあった。

       五十一

 七月十五日の日記にかれはこう書いた。
「杜国《とこく》亡びてクルーゲル今また歿《ぼっ》す。瑞西《すいっつる》の山中に肺に斃《たお》れたるかれの遺体《いたい》は、故郷《ふるさと》のかれが妻の側に葬《ほうむ》らるべし。英雄の末路《ばつろ》、言は陳腐《ちんぷ》なれど、事実はつねに新たなり。英雄クルーゲル元トランスヴァール共和国大統領ホウル・クルーゲル歿す。歴史はつねにかくのごとし」

       五十二

 医師《いしゃ》はやっぱり胃腸だと言った。けれど薬はねっから効《こう》がなかった。咳《せき》がたえず出た。体がだるくってしかたがなかった。ことに、熱が時々出るのにいちばん困った。朝は病気が直ったと思うほどいつも気持ちがいいが、午後からはきっと熱が出る。やむなく発汗剤をのむと、汗がびっしょりと出て、その心持ちの悪いことひととおりでない。顔には血の気がなくなって、肌《はだ》がいやに黄《き》ばんで見える。かれはいく度も蒼白《あおじろ》い手を返して見た。
「お前ほんとうにどうかしたのじゃないかね。しっかりした医師にかかってみるほうがいいんじゃないかね」
 母親は心配そうにかれの顔を見た。
 学校はやがて始まった。暑中休暇まではまだ半月ほどある。それに七時の授業始めなので、朝が忙しかった。母親は四時には遅くも起きて竃《かまど》の下を焼《た》きつけた。清三は薬瓶と弁当とをかかえて、例の道をてくてくと歩いて通った。一里半の通いなれた路――それにもかれはいちじるしい疲労を覚えるほどその体は弱くなっていた。それに、このごろでは滋養品をなるたけ多く取る必要があるので、毎日牛乳二合、鶏卵を五個、その他肉類をも食《く》った。移転の借金をまだ返さぬのに、毎日こうして少なからざる金がかかるので、かれの財布はつねにからであった。馬車に乗りたくも、そんな余裕はなかった。

       五十三

 八阪《やさか》神社の祭礼はにぎやかであった。当年は不景気でもあり、国家多事の際でもあるので、山車《だし》も屋台《やたい》もできなかったが、それでも近在から人が出て、紅い半襟や浅黄《あさぎ》の袖口やメリンスの帯などがぞろぞろと町を通った。こういう人たちは、氷店に寄ったり、瓜店《うりみせ》の前で庖丁《ほうちょう》で皮をむいてもらって立ち食いをしたり、よせ切れの集まった呉服屋の前に長い間立ってあれのこれのといじくり回したりした。大きな朱塗《しゅぬり》の獅子は町の若者にかつがれて、家から家へと悪魔をはらって騒がしくねり歩いた。清三が火鉢のそばにいると、そばの小路《こうじ》に、わいしょわいしょという騒がしい懸《か》け声がして、突然獅子がはいって来た。草鞋《わらじ》をはいた若者は、なんの会釈《えしゃく》もなく、そのままずかずかと畳の上にあがって、
「やあ!」
 と大きな獅子《しし》の口をあげて、そのまま勝手もとに出て行った。
 母親は紙に包んだおひねりを獅子の口に入れた。一人息子《ひとりむすこ》のために、悪魔を払いたまえ! と心に念じながら……。

       五十四

 母親は二階の床《とこ》の間に、燃《も》ゆるような撫子《なでしこ》と薄紫のあざみとまっ白なおかとらのおと黄《き》いろいこがねおぐるまとを交《ま》ぜて生《い》けた。時には窓のところにじっと立って、夕暮れの雲の色を見ていることもあった。そのやせた後ろ姿を清三は悲しいようなさびしいような心地でじっと見守った。
 父親は二階の格子《こうし》を取りはずしてくれた。光線は流るるように一室にみなぎりわたった。窓の下には足長蜂《あしながばち》が巣を醸《かも》してブンブン飛んでいた。大家《おおや》の庭樹《にわき》のかげには一本の若竹が伸びて、それに朝風夕風がたおやかに当たって通った。

       五十五

 五月六日には体量十二貫五百目、このごろ郵便局でかかってみると、単衣《ひとえ》のままで十貫六百目、荻生さんは十三貫三百目。
 ある日、田原ひで子が学校に来て手紙を小使に頼んでおいて行った。手紙の中には、手ずから折った黄いろい野菊の花が封じ込んであった。「野の菊は妾《わらわ》の愛する花、師の君よ、師の君よ、この花をうつくしと思ひたまはずや」と書いてあった。
 暑中休暇前一二日の出勤は、かれにとってことにつらかった。その初めの日は帰途《かえり》に驟雨《しゅうう》に会い、あとの一日は朝から雨が横さまに降った。かれは授業時間の間《あいだ》々を宿直室に休息せねばならぬほど困憊《こんぱい》していた。それに今月の月給だけでは、薬代、牛乳代などが払えぬので、校長に無理に頼んで三円だけつごうしてもらった。
 旅順|陥落《かんらく》の賭《かけ》に負けたから
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