。コスモスもだいぶ大きくなった。また時には、はだしになって垣の隅の畠を一生懸命に耕していることなどもあった。
 農繁休暇はなおしばし続いた。一週間で授業を始めてみたが、麦刈り養蚕田植えなどがまだすっかり終わらぬので、出席生徒の数は三分の一にも満たなかった。で、いま一週間休暇をつづけることにする。清三は午後は二階の風通しのいいところでよく昼寝をした。あまり長く寝込んで西日に照らされて、汗をぐっしょりかいていることなどもあった。町も郊外もしばしの間はめずらしく、雨の降らぬ日には、たいてい画架《がか》をかついで写生に出かけた。警察のそばの道に沿った汚ない溝《みぞ》には白い小さい花がポチポチ咲いて、さびた水に夢見るような赤いねむの花がかすかにうつった。寺の門、町はずれから見たる日光群山、桑畑の鶏《とり》、路傍の吹《ふ》き井《い》、うどんひもかわと書いた大和障子《やまとしょうじ》などの写生がだんだんできた。
 夜は大家《おおや》の中庭の縁側に行って話した。戦争の話がいつも出る。二三日前荻生さんから借りた戦争画報を二三冊また借《か》してやったが、それについてのいろいろの質問が出る。「どうももう旅順が取れそうなものですがなア」とさももどかしそうに主人は言って、「それにもう、陸軍のほうもよほど行ったんでしょう。第一軍は九|連城《れんじょう》を取ってから、ねっから進まんじゃありませんか。第二軍は蓋平《がいへい》からもうよほど行ったんですか」
 清三は新聞や雑誌で、得た知識で、第一軍第二軍が近いうちに連絡して遼陽《りょうよう》のクロパトキン将軍の本営に迫る話をして聞かした。旅順の方面については、海陸ともにひしひしと押し寄せて、敵はもう袋の鼠《ねずみ》になってしまったから、こっちのほうは遼陽よりも早く片づくはずである。「来月の十五日ぐらいまでにはきっと取れるッて校長なども言うんです。私はいま少し遅くなるかもしれないと思いますけれど、なにしろもうじきですな」などと清三は言って聞かせた。
「なにしろ、日本は小さいけれども、挙国一致《きょこくいっち》ですからかないませんやな。どんな百姓でも、無知な人間でも、戦争ッていえば一生懸命ですからな……天子様も国民の後援があって、さぞ御《み》心丈夫でいらっしゃるでしょう」と感嘆したような調子で言って、「日本は昔からお武士《さむらい》でできた国ですからなア!」
 大家《おおや》はまた釣の話をして聞かせることがあった。清三が胃腸を悩んでいるとかいうのを聞いて、「どうです、一ついっしょに出かけてみませんか。そういう病気には、気が落ち着いてごくいいですがな」こんなことを言って誘った。その場所はここから一里ぐらい行ったところで、田のところどころに掘切《ほっきり》がある。そこには葦荻《ろてき》が人をかくすぐらいに深く生《お》い茂《しげ》っている。鮒《ふな》や鯉《こい》やたなごなどのたくさんいるのといないのとがある。そのいるところを大家さんはよく知っていた。
 二人で話している縁側の上に、中老の品のいい細君《さいくん》は、岐阜提灯《ぎふぢょうちん》をつるしてくれた。
 時には母親と荻生さんと三人つれだって町を歩くこともあった。今年は「から梅雨《つゆ》」で、雨が少なかった。六月の中ごろにすでに寒暖計が八十九度まであがったことがあった。七月にはいってから、にわかに暑さが激しく、田舎町の夜には、縁台を店先に出して、白地の浴衣《ゆかた》をくっきりと闇に見せて、団扇《うちわ》をバタバタさせている群れがそこにもここにも見えた。母親は買い物をする町の店に熟していないので、そうした夜の散歩には、荻生さんがここが乾物屋、ここが荒物屋《あらものや》、呉服屋ではこの家が一番かたいなどと教えてくれた。下駄屋の店には、中年のかみさんが下駄の鼻緒《はなお》の並んだ中に白い顔を見せてすわっていた。鍛冶屋《かじや》にはランプが薄暗くついて、奥では話し声が聞こえていた。水のような月が白い雲に隠れたりあらわれたりして、そのたびごとにもつれた三つの影が街道にうつったり消えたりする。
 用水の橋の上は涼しかった。納涼《のうりょう》に出た人々がぞろぞろ通る。冬や春は川底に味噌漉《みそこし》のこわれや、バケツの捨てたのや、陶器の欠片《かけら》などが汚なく殺風景《さっぷうけい》に見えているのだが、このごろは水がいっぱいにみなぎり流れて、それに月の光や、橋のそばに店を出している氷屋の提灯《ちょうちん》の灯影《ひかげ》がチラチラとうつる、流れる水の影が淡く暗く見える。向こうの料理店から、三絃《しゃみせん》の音が聞こえた。
 三人は氷店に休んで行くこともある。母親は帰りに、八百屋《やおや》に寄って、茄子《なす》や白瓜《しろうり》などを買う。局の前で、清三は母親を先に帰して、荻生さ
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