」
「少し手伝ったら、呼吸《いき》がきれてしかたがない」
「お前は無理をしてはいけないよ。父《おとっ》さんがするから、あまり働かずにおおきよ」
このごろ、ことに弱くなった清三が、母親にはこのうえない心配の種《たね》であった。
やがてどうやらこうやらあたりが片づく。「こうしてみると、なかなか住心地《すみごこち》がいい」と父親は長火鉢の前で茶を飲みながら言った。車力は庭の縁側に並んで、振舞《ふるま》われた蕎麦をズルズルすすった。
清三と荻生さんは二階に上がって話した。南と西北とがあいているので風通しがいい。それに裏の大家《おおや》の庭には、栗だの、柿だの、木犀《もくせい》だの、百|日紅《じっこう》だのが繁っている。青空に浮いた白い雲が日の光を帯びて、緑とともに光る。二人は足を投げ出して、のんきに話をしていると、そこに母親が茶をいれて持って来てくれる。大福餅を二人して食った。
夜は清三は二階に寝た。久しぶりで家庭の団欒《だんらん》の楽しさを味わったような気がする。雨戸を一枚あけたところから、緑をこしたすずしい夜風がはいって、蚊帳《かや》の青い影がかすかに動いた。かれはまんなかに広く蒲団《ふとん》を敷いて、闇《やみ》の空にチラチラする星の影を見ながら寝た。母親が階段《はしご》を上って来て、あけ放した雨戸をそッとしめて行ったのはもう知らなかった。
翌日は弥勒《みろく》に出かけて、人夫を頼んで、書籍寝具などを運んで来た。二階の六畳を書斎にきめて、机は北向きに、書箱《ほんばこ》は壁につけて並べておいて、三尺の床は古い幅物《かけもの》をかけた。荻生さんが持って来てくれた菖蒲《しょうぶ》の花に千鳥草《ちどりぐさ》を交《ま》ぜて相馬焼《そうまや》きの花瓶にさした。「こうしてみると、学校の宿直室よりは、いくらいいかしれんね」と荻生さんはあたりを見回して言った。親しい友だちが同じ町に移転して来たので、なんとなくうれしそうににこにこしている。寺の本堂に寄宿しているころは、清三は荻生さんをただ情に篤《あつ》い人、親切な友人と思っただけで、自分の志や学問を語る相手としてはつねに物足らなく思っていた。どうしてああ野心がないだろう。どうしてああ普通の平凡な世の中に安心していられるだろうと思っていた。時には自分とは人間の種類が違うのだとさえ思ったことがある。それが今ではまるで変わった。かれは日記に「荻生君はわが情《じょう》の友なり、利害、道義もってこの間を犯《おか》し破るべからず」と書いた。また「かつてこの友を平凡に見しは、わが眼の発達せざりしためのみ。荻生君に比すれば、われははなはだ世間を知らず、人情を解せず、小畑加藤をこの友に比す、今にして初めて平凡の偉大なるを知る」と書いた。
前の足袋屋《たびや》から天ぷら、大家《おおや》から川魚の塩焼きを引っ越しの祝いとして重箱に入れてもらった。いずれも「あいそ」という鱗《うろこ》のあらい腹の側の紅《あか》い色をした魚で、今が利根川でとれる節《せつ》だという。米屋、炭屋、薪屋《まきや》なども通いを持って来た。父親は隣近所の組合を一軒一軒回って歩いた。清三は午後から二階の六畳に腹《はら》ばいになって、東京や行田や熊谷の友人たちに転居の端書《はがき》を書いた。寺にも出かけて行ったが、ちょうど葬式で、和尚《おしょう》さんは忙しがっていたので、転居のことを知らせておいて帰って来た。
大家の主人《あるじ》はおもしろい話好きの人であった。店は息子《むすこ》に譲《ゆず》って、自分は家作《かさく》を五軒ほど持って、老妻と二人で暮らしているというのんきな身分、釣《つり》と植木が大好きで、朝早く大きな麦稈帽子《むぎわらぼうし》をかぶって、※[#「竹かんむり/令」、第3水準1−89−59]※[#「竹かんむり/省」、第4水準2−83−57]《びく》を下げて、釣竿《つりざお》を持って、霧の深い間から木槿《もくげ》の赤く白く見える垣《かき》の間の道を、てくてくと出かけて行く。そして日の暮れるころには、※[#「竹かんむり/令」、第3水準1−89−59]※[#「竹かんむり/省」、第4水準2−83−57]《びく》の中に金色《こんじき》をした鮒《ふな》や鯉《こい》をゴチャゴチャ入れて帰って来る。店子《たなこ》はおりおり擂《す》り鉢《ばち》にみごとな鮒を入れてもらうことなどもある。釣に行かぬ時は、たいてい腰を曲げて盆栽《ぼんさい》や草花などを丹念にいじくっている。そうかといってべつにたいしたものがあるのでもない。楓《かえで》に、欅《けやき》に、檜《ひのき》に、蘇鉄《そてつ》ぐらいなものだが、それを内に入れたり出したりして、楽しみそうに眺めている。花壇にはいろいろ西洋種もまいて、天竺牡丹《てんじくぼたん》や遊蝶草《ゆうちょうそう》などが咲いている
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