の時町にいるものは、活版屋をしている沢田君ぐらいのものであった。清三はその往来した友の家々を暇乞《いとまご》いをして歩いた。北川の家には母親が一人いた。入り口ですまそうとするのを、「まアまアほんとうにお久しぶりでしたね」と無理に奥の座敷へと請《しょう》された。美穂子については、「あれも今年は卒業するのですけれど、意気地《いくじ》がなくって、学校が勤まりますかどうですか」などと言った。移転のことを聞いては「まアまアお名残り惜しい、……けれどまア貴君の身体《からだ》がおきまりになって、お引っ越しなさるんですから、結構ですねえ、お母さんもさぞお喜びでしょう。薫《かおる》がおれば、お手伝いぐらいいたすんですけれど、あれもこの七月には戦地に参るそうですから……」それからそれと、戦争の話やら町の話やらが続いた。母親の眼には、蒼白《あおじろ》い顔をした眼の濁った体《からだ》のやせた清三の姿がうつった。忍沼《おしぬま》のさびた水にはみぞかくしの花がところどころに白く見えた。加藤の家には母親も繁子も留守《るす》で、めずらしく父親がいた。上がって教育上の話などを一時間ばかりもした。羽生からいますこし近いところにいい口があったら、転任させてもらいたいということをも頼んだ。石川の店では、小僧が忙しそうに客に応対していた。そこへ番頭が向こうから自転車をきしらして帰って来て、ひらりと飛び下りた。沢田さんは真黒になって働きながら、「こっちのほうに来た時にはぜひ寄ってください」と言った。清三は最後に弟の墓を訪《と》うた。祖父の墓は足利にある。祖母の墓は熊谷にある。こうして、ところどころに墓を残して行く一家族の漂泊的《ひょうはくてき》生活をかれは考えて黯然《あんぜん》とした。一人他郷に残される弟はさびしかろうなどとも思った。あじさいの花は墓を明るくした。
道具とてもない一家の移転の準備は簡単であった。箪笥《たんす》と戸棚とを薦《こも》でからげ、夜具を大きなさいみの風呂敷で包んだ。陶器はすべて壊《こわ》れぬように、箪笥の衣類の中や蒲団《ふとん》の中などに入れた。最後に椿《つばき》や南天《なんてん》の草花などを掘って、根を薦《こも》包みにして庭の一隅《かたすみ》に置いた。
降るかと思った空は午前のうちに晴れた。荷物を満載《まんさい》した三台の引っ越し車はガラガラと町の大通りをきしって行く。ところどころで、母親と清三とが知人にでっくわして挨拶《あいさつ》しているさまが浮き出すように見える。車の一番上に積まれた紙屑籠《かみくずかご》につめたランプのホヤがキラキラ光る。
長野の手前で、額が落ちかかりそうになったのを清三は直した。母親はにこにことうれしそうな顔色で、いろいろな話をしながら歩いて行く。熊谷から行田に移転した時の話も出る。
「こうして、たいした迷惑を人にもかけずに、昼間引っ越して行かれるのは、みんなお前のおかげだよ」などと言った。長野をはずれようとするところで、向こうから号外売りが景気よく鈴を鳴らして走って来た。清三は呼びとめて一枚買った。竹敷《たけじき》を出た上村艦隊が暴雨のために敵を逸《いっ》して帰着したということが書いてある。車力《しゃりき》は「残念ですなア。敵《かたき》をにがしてしまって……常陸丸《ひたちまる》ではこの近辺《きんぺん》で死んだ人がいくらもあるですぜ。佐間《さま》では三人まであるですぜ」などと話し合った。
ある豪農の塀《へい》の前では、平生引っ越し車などに見なれないので犬がほえた。榛《はん》の並木に沿った小川では、子供が泥だらけになって、さで網で雑魚《ざこ》をすくっている。繭売《まゆう》りの車がぞろぞろ通った。
新しい家では、今朝早く来た父親と、局を休んで手伝いに来てくれた荻生さんとが、バタバタ畳をたたいたり、雑巾《ぞうきん》がけをしたり、破れた障子《しょうじ》をつくろったりしていた。大家《おおや》さんは火鉢と茶道具とを運んで来て、にこにこ笑いながら、「何かいるものがありましたなら遠慮なくおっしゃい」と言って、禿《はげ》頭に頬冠《ほおかむり》をして尻をまくった父親の姿を立って見ていた。それも十二時ごろにはたいてい片づいて、蕎麦屋《そばや》からは蕎麦を持って来る。荻生さんは買って来た大福餅を竹の皮包みから出してほおばる。そこの小路《こうじ》にガタガタと車のはいる音がして、清三と母親の顔が見えた。
車力は縄《なわ》をといて、荷物を庭口から縁側へと運び入れる。父親と荻生さんが先に立って箪笥や行李や戸棚や夜具を室内に運ぶ。長火鉢、箪笥の置き場所を、あれのこれのと考える。母親は襷《たすき》がけになって、勝手道具を片づけていたが、そこに清三が外から来て、呼吸《いき》をきらして水を飲んだ。
母親は手をとどめて、じっと見て、
「どうしたの?
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