と、風を引かぬようにつとむることと、煙草《たばこ》をやめることと、土曜日の帰宅を待つことと、それくらいがこのごろの仕事で、ほかにこれといって変わったこともなかった。しかし煙草と菓子とをやめるは容易ではなかった。気分がよかったり胃がよかったりすると、机のまわりに餅菓子のからの竹皮や、日の出の袋などがころがった。
 写生にはだいぶ熱中した。天気のよい暖かい日には、画板《がばん》と絵の具とをたずさえてよく野に出かけた。稲木《いなぎ》、榛《はん》の林、掘切《ほっきり》の枯葦《かれあし》、それに雪の野を描いたのもあった。ある日学校の付近の紅梅をえがいてみたが、色彩がまずいので、花が桃かなんぞのように見えた、嫁菜《よめな》、蓬《よもぎ》、なずななどの緑をも写した。
 月の末に、小畑から手紙が届いた。少しく病をえて、この春休みを故郷に送るべく決心した。久しぶりで一度会いたい。こちらから出かけて行くから、日取りを知らせてよこせとのことであった。旅順における第一回の閉塞《へいそく》の記事が新聞紙上に載せられてある日であった。清三は喜んで返事を出した。金曜日には行くという返事が折りかえして来る。清三は荻生さんにも来遊をうながした。その前夜は月が明るかった。かれはそれに対して、久しぶりで友のことを思った。

       四十五

 小畑は昔にくらべていちじるしく肥えていた。薄い鬚《ひげ》などを生《は》やして頭をきれいに分けた。高等師範の制服がよく似合って見える。以前の快活な調子で「こういう生活もおもしろいなア」などと言った。
 荻生さんは清三と小畑と教員たちとが、ボールを取って校庭に立ったのを縁側からおりる低い階段の上に腰かけて見ていた。小畑の球《たま》はよく飛んだ。引きかえて、清三の球には力がなかった。二三度|勝負《しょうぶ》があった。清三の額《ひたい》には汗が流れた。心臓の鼓動《こどう》も高かった。
 苦しそうに呼吸《いき》をつくのを見て、
「君はどうかしたのか」
 こう言って、小畑は清三の血色の悪い顔を見た。
「体《からだ》が少し悪いもんだから」
「どうしたんだ?」
「持病の胃腸さ、たいしたことはないんだけれど……」
「大事にしないといかんよ」
 小畑はふたたび友の顔を見た。
 三人は快活に話した。清三が出して見せる写生を一枚ごとに手に取って批評した。荻生さんの軽い駄洒落《だじゃれ》もおりおりは交った。そこに関さんがやって来て、昆虫採集の話や植物採集の話が出る。三峰《みつみね》で採集したものなどを出して見せる。小畑は学校にあるめずらしい標本や昨年の秋に採集に出かけた時のことなどを話して聞かせる、にぎやかな声がいつもはしんとした宿直室に満ちわたった。
 夕飯《ゆうめし》は小川屋に行って食った。雨気《あまけ》を帯びた夕日がぱッと障子《しょうじ》を明るく照らして、酒を飲まぬ荻生さんの顔も赤い。小畑は美穂子や雪子のことはなるたけ口にのぼさぬようにした。かれは談笑の間にもいちじるしく清三の活気がなくなったのを見た。
 荻生さんは清三のいない時に、
「あれでも去年はなかなか盛んだったんですからな」
 こう言って、女が学校にやって来たことなどを小畑に話して聞かせた。小畑は少なからず驚かされた。
 夜は小川屋から一組の蒲団《ふとん》を運んで来た。まだ寒いので、荻生さんは小使部屋に行ってはよく火を火鉢に入れて持って来た。菓子もつき、湯茶もつき、話もつきてようやく寝ようとしたのは十一時過ぎであった。便所に出て行った小畑は帰って来て、「雨が降ってるねえ」と声低く言った。
「雨!」
 と明日《あす》朝早く帰るはずの荻生さんは困ったような声を立てた。
「明日《あした》は土曜、明後日《あさって》は日曜だ。行田には今週は帰らんつもりだから、雨は降ったッてかまいやしない。君も、明日《あした》一日遊んで行くサ。めったに三人こうしていっしょになることはありゃしない」と清三はこう荻生さんに言ったが、戸外にようやく音を立て始めた点滴《てんてき》を聞いて、「愉快だなア! こうしたわれわれの会合の背景が雨になったのはじつに愉快だ。今夜はしめやかに昔を語れッて、天が雨を降らしてくれたようなものだ!」
 興《きょう》が大《おお》いに起こって来たというふうである。小畑の胸にもかれの胸にも中学校時代のことがむらむらと思い出された。清三は帰りがおそくなるといつもこうして一枚の蒲団《ふとん》の中にはいって、熊谷の小畑の書斎に泊まるのがつねであった。顔と顔とを合わせて、眠くなってどっちか一方「うんうん」と受け身になるまで話をするのが例であった。
「あのころが思い出されるねえ」
 と小畑は寝ながら言った。
 荻生さんが一番先に鼾声《いびき》をたてた。「もう、寝ちゃった! 早いなア」と小畑が言った。そ
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