容花《びようはな》のごとくであったということをも語った。
オルガンの音がやがて聞こえ出した。小使が行ってみると、若い先生が指を動かしてしきりに音を立てているかたわらに、海老茶《えびちゃ》の袴《はかま》を着《つ》けたひで子は笑顔《えがお》をふくんで立った。
校庭は静かであった。午後の日影に雀がチャチャと鳴きしきった。テニスコートの線があきらかに残っていて、宿直室の長い縁側の隅にラケットやボールや網《ネット》が置いてあるのが見える。庭の一隅《かたすみ》には教授用の草木が植えられてあった。
ひで子を送って清三はそこに出て来た。
薔薇《ばら》の新芽が出ているのが目についた。清三はこれをひで子に示して、
「もう芽が出ましたね、早いもんだ、もうじき春ですな」
「ほんとうに早いこと!」
とひで子はその一葉をつまみ取った。
やがて校外の路《みち》を急いで帰って行く海老茶袴の姿が見えた。
四十四
日露開戦、八日の旅順と九日の仁川《じんせん》とは急雷のように人々の耳を驚かした。紀元節の日には校門には日章旗《にっしょうき》が立てられ、講堂からはオルガンが聞こえた。
東京の騒ぎは日ごとの新聞紙上に見えるように思われた。一月《ひとつき》以前から政治界の雲行きのすみやかなのは、田舎《いなか》で見ていても気がもめた。召集令はすでにくだった。村役場の兵事係りが夜に日をついで、その命令を各戸に伝達すると、二十四時間にその管下に集まらなければならない壮丁《そうてい》たちは、父母妻子に別れを告げる暇もなく、あるは夕暮れの田舎道に、あるは停車場までの乗合馬車に、あるは楢林《ならばやし》の間の野の路に、一包みの荷物をかかえて急いで国事《こくじ》におもむく姿がぞくぞくとして見られた。南埼玉《みなみさいたま》の一郡から徴集されたものが三百余名、そのころはまだ東武線ができぬころなので、信越線の吹上駅《ふきあげえき》、鴻巣駅《こうのすえき》、桶川駅《おけがわえき》、奥羽線の栗橋駅、蓮田駅《はすだえき》、久喜駅《くきえき》などがその集まるおもなる停車場であった。
交通の衝《しょう》に当たった町々では、いち早く国旗を立ててこの兵士たちを見送った。停車場の柵内《さくない》には町長だの兵事係りだの学校生徒だの親類友だちだのが集まって、汽車の出るたびごとに万歳を歓呼《かんこ》してその行をさかんにした。清三は行田から弥勒《みろく》に帰る途中、そうした壮丁に幾人《いくたり》もでっくわした。
旅順《りょじゅん》仁川《じんせん》の海戦があってから、静かな田舎《いなか》でもその話がいたるところでくり返された。町から町へ、村から村へ配達する新聞屋の鈴の音は忙しげに聞こえた。新聞紙上には二号活字がれいれいしくかかげられて、いろいろの計画やら、風説やらが記《しる》されてある。十二日は朝から曇った寒い日であったが、予想のごとく、敵の浦塩艦隊《うらじおかんたい》が津軽海峡《つがるかいきょう》に襲来《しゅうらい》して、商船|奈古浦丸《なこのうらまる》を轟沈《ごうちん》したという知らせが来た。その津軽海峡の艫作崎《へなしざき》というのはどこに当たるか、それをたしかめるため、校長は教授用の大きな大日本地図を教員室にかけた。老訓導も関さんも女教師もみなそこに集まった。
「ははア、こんなところですかな」
と老訓導は言った。
清三は浦塩《うらじお》から一直線にやって来た敵の艦隊と轟沈《ごうちん》されたわが商船とを想像して、久しくその掛け図の前に立っていた。
湯屋でも、理髪舗《とこや》でも、戦争の話の出ぬところはなかった。憎いロシアだ、こらしてやれという爺《じじい》もあれば、そうした大国を敵としてはたして勝利を得らるるかどうかと心配する老人もあった。子供らは旗をこしらえて戦争の真似《まね》をした。けれどがいして田舎は平和で、夜はいつものごとく竹藪《たけやぶ》の外に藁屋《わらや》の灯《あかり》の光がもれた。ちょうど旧暦の正月なので、街道の家々からは、酒に酔《え》って笑う声や歌う声もした。
このごろかれは朝は六時半に起床し、夜は九時に寝た。正月の餅と饂飩《うどん》とに胃腸をこわすのを恐れたが、しかしたいしたこともなくてすぎた。節約に節約を加えた経済法はだんだん成功して負債《ふさい》もすくなくなり、校長の斡旋《あっせん》で始めた頼母子講《たのもしこう》にも毎月五十銭をかけることもできるようになった。午後の二時ごろにはいつも新聞が来た。戦争の始まってから、互いにかわった新聞を一つずつ取って交換して見ようという約束ができた。国民に万朝報に東京日日に時事、それに前の理髪舗《とこや》から報知を持って来た。
この多くの新聞を読むことと、日記をつけることと、運動をすることと、節倹をすること
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