日があった。野は平らかに、静かに、広く、さびしく、しかも心地よく刈り取られて、榛《はん》のひょろ長い空《むな》しい幹が青い空におすように見られた。かれは午前七時にはかならず起きて、燃ゆるような朝日の影の霜けぶりの上に昇るのを見ながら、いつも深呼吸を四五十度やるのを例にしていた。「どうして、こう気分がすぐれないんだろう。どうかしなくってはしかたがない」などと時にはみずから励ました。しかしやっぱり胃腸の工合《ぐあ》いはよくなかった。寝汗も出た。

       四十二

 ある暖かい日曜に、関さんとつれだって、羽生の原という医師《いしゃ》のもとに診《み》てもらいに出かけた。町の横町に、黒い冠木《かぶき》の門があって、庭の松がこい緑を見せた。白い敷布をかけた寝台《ねだい》が診察室《しんさつしつ》にあって、それにとなった薬局には、午前十時ごろの暖かい冬の日影のとおった硝子《がらす》の向こうに、いろいろの薬剤を盛った小さい大きい瓶《びん》が棚《たな》の上に並べてあるのが見えた。医師は三十七八の髪を長くしたていねいな腰の低い人で、聴診器を耳に当てて、まず胸から腹のあたりを見た。次に、肌をぬがせて背中のあたりを見て、コツコツと軽くたたいた。
「やはり、胃腸が悪いんでしょうな」
 こう言って型のごとき薬を医師はくれた。
 春のような日であった。連日の好晴《こうせい》に、霜解《しもど》けの路《みち》もおおかた乾いて、街道にはところどころ白い埃《ほこり》も見えた。霞《かすみ》につつまれて、頂《いただき》の雪がおぼろげに見える両毛《りょうもう》の山々を後ろにして、二人は話しながらゆるやかに歩いた。野の角《かど》に背を後ろに日和《ひなた》ぼっこをして、ブンブン糸繰《いとく》り車《ぐるま》をくっている猫背の婆さんもあった。名代《なだい》の角の饂飩屋《うどんや》には二三人客が腰をかけて、そばの大釜からは湯気が白く立っていた。野には、日当《ひあ》たりのいい所には草がすでにもえて、なず菜《な》など青々としている。関さんはところどころで、足をとめて、そろそろ芽を出し始めた草をとった。そしてそれを清三に見せた。風呂敷にも包まずに持っている清三の水薬の瓶には、野の暖かい日影がさしとおった。

       四十三

「先生」
 とやさしい声がした。
 障子をあけると、廂髪《ひさしがみ》に結《ゆ》って、ちょっと見ぬ間に非常に大人びた女生徒の田原ひでがにこにこと笑って立っていた。昨年の卒業生で、できのいいので評判であったが、卒業すると、すぐ浦和の師範学校に行った。高等二年生の時から清三が手がけて教えたので、ことにかれをなつかしがっている。高等四年のころに、新体詩などを作ったり和文を書いたりして清三に見せた。家《うち》はちょっとした農家で、散歩の折りに清三が寄ってみたこともあった。あまり可愛がるので、「林先生は田原さんばかり贔屓《ひいき》にしている」などと生徒から言われたこともあった。丸顔の色の白い田舎《いなか》にはめずらしいハイカラな子で、音楽が好きで、清三の教えた新体詩をオルガンに合わせてよく歌った。師範学校の寄宿舎からも、つねに自然の、運命の、熱情のと手紙をよこした。教え子の一人よりなつかしき先生へと書いて来たこともあった。時には、詩をくださいなどと言って来ることもあった。
「田原さん!」
 清三は立ち上がった。
「どうしたんです?」
 続いてたずねた。
「今日用事があって、家《うち》に参りましたから、ちょっとおうかがいしましたの」
 言葉から様子からこうも変わるものかと思うほど大人《おとな》びてハイカラになったのを清三は見た。
「先生、ご病気だって聞きましたから」
「誰に?」
「関先生に――」
「関さんにどこで会ったんです?」
「村の角《かど》でちょっと――」
「なアにたいしたことはないんですよ」と笑って、「例の胃腸です――あまり甘いものを食《く》い過ぎるものだから」
 ひで子は笑った。
 先生と生徒とは日曜日の午後の明るい室に相対してしばし語った。寄宿舎の話などが出た。今年卒業するはずの行田の美穂子の話も出た。いぜんとして昔の親しみは残っているが、女には娘になったへだてがどことなく出ているし、男には生徒としてよりも娘という感じがいつものへだてのない会話をさまたげた。机の上には半分ほど飲んだ水薬の瓶《びん》が夕日に明るく見えていた。清三は今朝友から送って来た「音楽の友」という雑誌をひろげてひで子に見せた。口絵には紀元二百年ごろの楽聖《がくせい》セント、セリシアの像が出ていた。オルガンの妙音から出た花と天使《エンジェル》の幻影とを楽聖はじっと見ている。清三はこの人はローマの貴族に生まれて、熱心なるエホバの信者で、オルガンの創造者であるということを話して聞かせた。美
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