罪悪が発端《ほったん》なり。△中学世界買って来てよむ。△加藤帰京す。
八日――健康を得たし、健康を得たし、健康を得たし。
九日――「寒牡丹」読みて夜にはいって読了す。罪悪に伴なふ悲劇中の苦悶、女主人公ルイザの熱誠なる執着、四百|頁《ページ》の大団円《だいだんえん》はラブの成功に終はる。△煙草は感冒《かぜ》の影響にて、にわかにその量を減じ、あらば吸ひ、なくば吸はぬといふやうになりたり。長くこの方法が惰性となればよけれどいかにや。明日はまた利根河畔の人となるべし。△日露の危機、外交より戦期にうつらんとすと新聞紙しきりに言ふ。吾人の最も好まぬ戦争は遂《つい》にさくべからざるか。
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 さびしい寒い宿直室の生活はやがてまた始まった。昨年の十一月から節約に節約を加えて、借金の返却を心がけたので、財嚢《ざいのう》はつねにつねに冷やかであった。胃が悪く気分がすぐれぬので、つとめて運動をしようと思って、生徒を相手に校庭でよくテニスをやった。かれの蒼白《あおじろ》い髪の生《は》えたすらりとやせた姿はいつも夕暮れの空気の中にあざやかに見えた。かれは土曜日の日記の中に、「平日の課業を正直にすませ、満足に事務を取り、温かき晩餐《ばんさん》ののち、その日の新聞をよみ終はりて、さて一日の反省になんらもだゆることなく、安息すべき明日の日曜を思へば、テニスの運動の影響とて、右手の筋肉の筆《ふで》とるにふるへるのほかたえて平和ならざるなし」と書いた。また「Mの都合あれば帰宅したけれど思いとまる。節約の結果三銭の刻《きざ》み煙草《たばこ》四日を保《たも》つ」と書いた。しかしかれは夜眠られなくって困った。眠ったと思うとすぐ夢におそわれる。たいていは恐ろしい人に追いかけられるとか刀で斬られるとかする夢で、眼がさめると、ぐっしょり寝汗をかいている。心持ちの悪いことはたとえようがなかった。
 中学校々友会の会報が年二季に来た。同窓の友の消息がおぼろ気ながらこれによって知られる。アメリカに行ったものもあれば、北海道に行ったものもある。今季《こんき》の会報には寄宿舎生徒松本なにがしがみずから棄てて自殺した顛末《てんまつ》が書いてあった。深夜、ピストルの音がして人々が驚いてはせ寄ったことがくわしく記してあった。かれは今まで思ったことのない「死」について考えた。夜はその夢を見た。寄宿舎の窓に灯が明るくついて、人がガヤガヤしている。ピストルが続けざまに鳴った。自殺した男が窓から飛んで来た。
 朝ごとの霜は白かった。夜半の霙《みぞれ》で竹の葉が真白になっていることもあった。ラッケットをさばいて校庭に立っているかれのやせぎすな姿を人々はつねに見た。解けやらぬ小川の氷の上にあおじが飛び、空しい枝の桑畠にはつぐみが鳴き、榛《はん》の根の枯草からは水鶏《くいな》が羽音高く驚き立った。楢《なら》や栗の葉はまったく落ちつくして、草の枯れた利根川の土手はただ一帯に代赭色《たいしゃいろ》に塗られて見えた。田には大根の葉がひたと捨てられてあった。
 月の中ごろに、母親から来た小荷物には、毛糸のシャツがはいっていた。手紙には「寒さ激しく御座候|間《あいだ》あまり寒き時は湯をやすみ、風ひかぬやう御用心くだされたく候、朝夕よきこと悪《あ》しきことにつけお前一人便りに御座候間御身大切に御守《おまも》り被下度《くだされたく》候《そうろう》」と書いてあった。このごろは母を思うの情がいっそう切《せつ》になって、土曜日に帰る途《みち》でも、稚児《ちご》を背に負った親子三人づれの零落した姿などを見ては涙をこぼした。母親もこのごろ清三のきわだってやさしくなったのを喜んだが、しかしまた心配にならぬでもなかった。にわかに気の弱くなったのは病気のためではないかと思った。清三が行くと、賃仕事を午後から休んで、白玉のしる粉などをこしらえてもてなした。寝汗が出るということを聞いて、「お前、ほんとうにお医者《いしゃ》にかかって見てもらわなくっていいのかね」と顔に心配の色を見せて言った。
 時には荻生さんを羽生から誘って来て、宿直室に一夜泊まらせることなどもあった。荻生さんはこのごろ話のある養子の口のことを語って、「その家は君、相応に財産があるんですって、いまに、りっぱな旦那になったら、たんとご馳走をしますよ。君ぐらい一人置いてあげてもいい」などと戯談《じょうだん》を言って快活に笑った。荻生さんは床にはいると、すぐ鼾《いびき》をたてて安らかに熟睡《じゅくすい》した。こうして安らかに世を送り得る人を清三はうらやましく思った。
 関さんはすいかずら[#「すいかずら」に傍点]やじゃのひげ[#「じゃのひげ」に傍点]や大黄[#「大黄」に傍点]などを枯れ草の中に見いだして教えてくれた。寒い冬の中にもきわだって暖かい春のような
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