のごろはよく風邪《かぜ》をひいた。散歩したとては、咳嗽《せき》が出たり、湯にはいったとては熱が出たりした。煙草を飲むと、どうも頭の工合《ぐあ》いが悪い。今までに覚えたことのない軽い一種の眩惑《めまい》を感じる。「君、どうかしたんじゃありませんか、医師《いしゃ》に見てもらうほうがいいですぜ」と関さんは二十四日の授業を終わって別れようとする時に言った。
 荻生さんを羽生に訪問した時には、そう大して苦しくもなかった。けれど成願寺に行って久しぶりで和尚さんに会って話そうと思った希望は警察署の前まで来て中止すべく余儀なくされた。熱も少なくとも三十八度五分ぐらいはある。それに咳嗽《せき》が出る。ちょうどそこに行田に戻り車がうろうろしていたので、やすく賃銭《ちんせん》をねぎって乗った。寒い路《みち》を日の暮《く》れ暮《ぐ》れにようやく家に着いた。
 年の暮れを一室《ひとま》に籠《こも》って寝て送った。母親は心配して、いろいろ慰めてくれた。幸《さいわ》いにして熱は除《と》れた。大晦日《おおみそか》にはちょうど昨日帰ったという加藤の家を音信《おとず》るることができた。郁治は清三のやせた顔と蒼白い皮膚《ひふ》とを見た。話しぶりもどことなく消極的になったのを感じた。なんぞと言うとすぐ衝突して議論をしたり、大晦日の夜を感激して暁《あかつき》の三時まで町中や公園を話し歩いたりした三年前にくらべると、こうも変わるものかと思われた。二人はこのごろ東京の新聞ではやる宝探《たからさが》しや玄米一升の米粒《こめつぶ》調べの話などをした。万朝報《まんちょうほう》の宝を小石川の久世山に予科の学生が掘りに行ってさがし当てたことをおもしろく話した。続いて、日露談判の交渉がむずかしいということが話題にのぼった。「どうも、東京では近来よほど殺気《さっき》立っている。新聞の調子を見てもわかるが、どこかこういつもに違ってまじめなところがある。いよいよ戦端《せんたん》が開けるかもしれない」と郁治は言った。清三もこのごろでは新聞紙上で、この国家の大問題を熱心に見ていた。「そんな大きな戦争を始めてどうするんだろう」といつも思っていた。二人はその問題についていろいろ話した。陸軍では勝算があるが、海軍では噸数《とんすう》がロシアのほうがまさっていて、それに戦闘艦《せんとうかん》が多いなどと郁治は話した。
 元日の朝、床《とこ》の間《ま》の花瓶《かびん》にかれはめずらしく花を生《い》けた。早咲きの椿《つばき》はわずかに赤く花を見せたばかりで、厚いこい緑の葉は、黄いろい寒菊《かんぎく》の小さいのと趣《おもむき》に富んだ対照をなした。べつに蔓《つる》うめもどきの赤い実の鈴生《すずな》りになったのを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》していると、母親は「私、この梅もどきッていう花大好きさ、この花を見るとお正月が来たような気がする」こう言って通った。父親は今朝猫の額のような畠の角《かど》で、霜解《しもど》けの土をザグザグ踏みながら、白い手を泥だらけにして、しきりに何かしていたが、やがてようやく芽を出し始めた福寿草《ふくじゅそう》を鉢に植えて床の間に飾った。朝日の影が薄く障子《しょうじ》にさした。親子は三人楽しそうに並んで雑煮《ぞうに》を祝った。
 清三の日記は次のごとく書かれた。
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明治三十七年
一月一日――新しき生命と革新とを与ふべく、新しく苦心と成功と喜びと悲しみとをくだすべく新年は来たれり。若き新年は向上の好機なり。願はくば清く楽しき生活をいとなましめよ。
△「新年《にいとし》を床の青磁《せいじ》の花瓶に母が好みの蔓梅《つるうめ》もどき」△小畑に手紙出す、これより勉強して二年三年ののち、検定試験を受けんとす、科目は植物に志す由《よし》言ひやる。△風邪心地やうやくすぐれたれば、明日あたりは野外写生せんとて画板《がばん》など繕《つくろ》ふ。
二日――「たたずの門」のあたりに写生すべき所ありたれど、風吹きて終日寒ければやむ。△きく子が数へし玄米一合の粒数《つぶかず》七二五六。
三日――昨夜入浴せしため感冒ふたたびもとにもどる。△休暇中に野外写生の望《のぞ》み絶《た》ゆ。
四日――万朝報《まんちょうほう》の米調べ発表。玄米一升七三二五〇粒。△今年は倹約せんと思ふ。財嚢《ざいのう》のつねに虚《きょ》なるは心を温めしむる現象にあらず。しょせん生活に必要なるだけの金は必要なり。
五日――年賀の礼今年は欠く。
六日――牧野雪子(雪子は昨年の暮れ前橋の判事と結婚せり)より美しき絵葉書の年賀状|来《き》たる。△腫物《はれもの》再発す。
七日――病後療養と腫物のため帰校をのばす。△紅葉秋濤《こうようしゅうとう》著《ちょ》「寒牡丹」読みかけてやめる。

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