日よりぞわれ、わが以前の生活に帰らん」
「第一、体《からだ》を重んぜざるべからず」
「第二、責任を重んぜざるべからず」
「第三、われに母あり」
かれは「われに母あり」と書いて、筆を持ったまま顔をあげた。胸が迫ってきて、蒼白い頬に涙がほろほろと流れた。
かれは中田に通い始めるころから、日記をつけることを廃した。めったなことを書いておいて、万一他人に見らるる恐れがないではないと思ったからである。かれは柳行李《やなぎごうり》をあけて、そのころの日記を出して見た。九月二十四日――秋季皇霊祭。その文字に朱で圏点《けんてん》が打ってあった。その次の土曜日の条に、大高島から向こう岸の土手に渡る記事が書いてあった。日記はたえだえながらも、その年の十月の末ころまでつづいていた。利根川の暮秋《ぼしゅう》のさまや落葉や木枯のことも書いてある。十月の二十三日の条に「この日、雨寒し――」と書いてあった、あとは白紙になっている。その時、「日記なんてつまらんものだ。やはり他人に見せるという色気があるんだ。自分のやったことや心持ちが十分に書けぬくらいならよすほうがいい。自分の心の大部分を占めてる女のことを一行も書くことのできぬような日記ならだんぜんよしてしまうほうがいい」こう思って筆をたったのを覚えている。その間の一年と二三か月の月日のことを清三は考えずにはおられなかった。その間はかれにとっては暗黒な時代でもあり、また複雑した世相《せそう》にふれた時代でもあった。事件や心持ちを十分に書けぬような日記ならよすほうがいいと言ったが、それと反対に日記に書けぬようなことはせぬというところに、日記を書くということのまことの意味があるのではないかとかれは考えた。
かれはふたたび日記を書くべく罫紙《けいし》を五六十枚ほど手ずから綴《と》じて、その第一|頁《ページ》に、前の三か条をれいれいしく掲《かが》げた。
明治三十六年十一月十五日
かれはこう書き出した。
四十一
「過去は死したる過去として葬《ほうむ》らしめよ」
「われをしてわが日々のライフの友たる少年と少女とを愛せしめよ」
「生活の資本は健康と金銭とを要す」
「われをして清き生活をいとなましめよ」
こういう短い句は日記の中にたえず書かれた。
またある日はこういうことを書いた。
「野心を捨てて平和に両親の老後を養い得ればこれ余の成功にあらずや、母はわれとともに住まんことを予想しつつあり」
またある時は次のようなことを書いた。
「親しかりし昔の友、われより捨て去りしは愚かなりき。情《じょう》薄《うす》かりき。われをしてふたたびその暖かき昔の友情を復活せしめよ。しょせん、境遇は境遇なり、運命は運命なり、かれらをうらやみて捨て去りしわれの小なりしことよ。喜ぶべきかな友情の復活! 一昨日小畑より打《う》ち解《と》けたる手紙あり。今日また加藤より情に満たされたる便りあり。小畑は自分の読み古したる植物の書籍近きに送らんといふ。うれし」
校長も同僚も清三の態度のにわかに変わったのを見た。清三は一昨年あたり熱心に集めた動植物の標本の整理に取りかかった。野から採《と》って来て紙に張ったままそのままにしてあったのを一つ一つ誰にもわかるように分類してみた。今年の夏休暇《なつやすみ》に三日ほど秩父《ちちぶ》の三峰《みつみね》に関さんと遊びに行った時採集して来たものの中にはめずらしいものがあった。関さんは文部《もんぶ》の中学教員検定試験を受ける準備として、しきりに動植物を研究していた。その旅でも実際について関さんはしきりに清三にその趣味を鼓吹《こすい》した。
小畑からやがてその教科書類が到着した。この秋まで音楽に熱心であった心はだんだんその方面に移っていった。わからぬところは関さんに聞いた。
村の百姓たちはふたたび若い学校の先生の散歩姿を野道に見るようになった。写生しているそのまわりに子供たちが圏《わ》をかいていることもある。かれは弥勒野《みろくの》の初冬の林や野を絵はがきにして、小畑や加藤に送った。
三たびこのさびしい田舎《いなか》に寒い西風の吹き荒れる年の暮れが来た。前の竹藪《たけやぶ》には薄い夕日がさして、あおじやつぐみの鳴き声が垣に近く聞こえる。二十二日ごろから、日課点の調べが忙しかった。旧の正月に羽生《はにゅう》で挙行せられる成績品展覧会に出品する準備もそれそうおうに整頓しておかなければならなかった。図画、臨本模写《りんぽんもしゃ》、考案画《こうあんが》、写生画《しゃせいが》、模様画《もようが》、それに綴り方に作文、昆虫標本、植物標本などもあった。それを生徒の多くの作品の中から選ぶのはひととおりの労力ではなかった。どうか来年は好成績を博《はく》したいものだと校長は言った。
それにどうしてか、こ
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