学校の裏の垣根のところから、声をかけたり、わざと土塊《つちくれ》をほうり込んだりするんですッて。そうして誰もいないと、庭から回ってはいって来るんだそうです」
「そして、その中に誰か相手ができてるんですか」
「よくわかりませんけれど、できてるんだそうです」
「どうせ、機織《はたおり》かなんかなんでしょう?」
「え」
「困るですな。そういう女に関係をつけては」
と和尚さんも嘆じた。
しばらくしてから、
「早くかみさんを持たせたら、どうでしょう」
「この間も行田に行きましたから、ついでに寄ったんですが、お袋さんもそう言っていました」
「加藤君のシスターはもらえないのですか」
「先生がいやだッて言うんです……」
「だッて、前にラブしていたんじゃないですか」
「どうですか、清三君、よく話さんですけれど、加藤君と何か仲たがいかなんかしたらしいですな」
「そんなことはないでしょう」
「いや、あるらしいです」
と荻生さんはちょっととぎれて、「この間も言ってましたよ、僕はこういう運命ならしかたがない。一生独身で子供を相手にして暮らしても遺憾《いかん》がないッて言ってましたよ」
「独身もいいが――そんなことをしてはしかたがない」
「ほんとうですとも」
と荻生さんは友だち思いの心配そうに、「校長が可愛がってくれてるからいいですけれど、郡視学の耳にでもはいるとたいへんですからな。それに狭い田舎《いなか》ですから、すぐぱッとしてしまいますから……今度来たら、それとなく言っていただきたいものですが……」
「それは言いましょう」
と和尚さんは言った。
「それに、清三君は体《からだ》が弱いですからな……」
と荻生さんはやがて言葉をついだ。
「やっぱり胃病ですか」
「え、相変わらず甘いものばかり食っているんですから。甘いものと、音楽と、絵の写生《しゃせい》とこの三つが僕のさびしい生活の慰藉《いしゃ》だなどと前から言っていましたが、このごろじゃ――この夏の試験を失敗してからは、集めた譜は押《お》し入《い》れの奥に入れてしまって、唱歌の時間きりオルガンも鳴《な》らさなくなりましたから」
「よほど失望したんですね」
「え……それは熱心でしたから、試験前の二月ばかりというものは、そのことばかり言ってましたから」
「つまり今度のことなどもそれから来てるんですな」と和尚さんは考えて、「ほんとうに気の毒ですな。ずいぶんさびしい生活ですものなア。それにまじめな性分《しょうぶん》だけ、いっそうつらいでしょうから」
「私みたいにのんきだといいんですけれど……」
「ほんとうに、君とは違いますね」
と和尚さんは笑った。
三十九
清三の借金はなかなか多かった。この二月ばかり、自炊をする元気もなく、三度々々小川屋から弁当を運ばせたので、その勘定《かんじょう》は七八円までにのぼった。酒屋に三円、菓子屋に三円、荒物屋に五円、前からそのままにしてある米屋に三円、そのほか同僚から一円二円と借りたものもすくなくなかった。荻生さんにも四円ほど借りたままになっていた。
中田に通うころに和尚さんに融通《ゆうずう》してもらった二円も返さなかった。
金の価値の貴《とうと》い田舎《いなか》では、何よりも先にこれから信用がくずれて行った。
四十
ところがどうした動機か、清三は急にまじめになった。もちろん校長からこんこんと説かれたこともあった。和尚さんからもそれとなく忠告された。けれどもそのためばかりではなかった。
頭が急に新しくなったような気がした。自己のふまじめであったのがいまさらのように感じられてきた。落ちて行く深い谷から一刻も早く浮かびあがらなければならぬと思った。
失望と空虚《くうきょ》とさびしい生活とから起こった身体《からだ》の不摂生《ふせっせい》、このごろでは何をする元気もなく、散歩にも出ず、雑誌も読まず、同僚との話もせず、毎日の授業もお勤《つと》めだからしかたがなしにやるというふうに、蒼白《あおじろ》い不健康な顔ばかりしていた。どことなく体がけだるく、時々熱があるのではないかと思われることなどもあった。持病の胃はますますつのって、口の中はつねにかわいた。――ふまじめな生活がこの不健康な肉体を通じて痛切なる悔恨《かいこん》をともなって来た。弱かったがしかし清かった一二年前の生活が眼の前に浮かんで通った。
「絶望と悲哀と寂※[#「宀/日/六」、211−12]《せきばく》とに堪へ得られるやうなまことなる生活を送れ」
「絶望と悲哀と寂※[#「宀/日/六」、211−13]とに堪へ得らるるごとき勇者たれ」
「運命に従ふものを勇者といふ」
「弱かりしかな、ふまじめなりしかな、幼稚なりしかな、空想児《くうそうじ》なりしかな、今日よりぞわれ勇者たらん、今
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