心の中に計画してやって来た。田舎の空気によごれた今までの生活をのがれて、新しい都会の生活をこれから開くのだと思うと、中学を出たころの若々しい気分にもなれた。昨日|吹上《ふきあげ》の停車場をたつ時には、久しぶりで、さまざまの希望の念が胸にみなぎったのである。かれはロハ台に横《よこ》たわりながら、その希望と今の失望との間にはさまった一場の光景をまた思い浮かべた。
ロハ台から起き上がる気分になるまでには、少なくとも一時間はたった。馬車はもういなかった。なにがし子爵《ししゃく》夫人ともいいそうなりっぱな貴婦人が、可愛らしい洋服姿の子供を三四人つれてそこから出て来て、嬉々《きき》として馬車に乗ると、御者は鞭《むち》を一|当《あて》あてて、あとに白い埃《ほこり》を立てて、ガラガラときしって行った。その白い埃を見つめたのをかれは覚えている。「せめて動物園でも見て行こう」と思ってかれは身を起こした。
丹頂《たんちょう》の鶴《つる》、たえず鼻を巻く大きな象、遠い国から来たカンガルウ、駱駝《らくだ》だの驢馬《ろば》だの鹿だの羊だのがべつだん珍らしくもなく歩いて行くかれの眼にうつった。ライオンの前ではそれでも久しく立ちどまって見ていた。養魚室の暗い隧道《とんねる》の中では、水の中にあきらかな光線がさしとおって、金魚や鯛《たい》などが泳いでいるのがあざやかに見えた。水珠《みずたま》がそこからもここからもあがった。
鴎《かもめ》や鴛鴦《おし》やそのほかさまざまの水鳥のいる前のロハ台にかれはまた腰をおろした。あたりをさまざまな人がいろいろなことを言ってぞろぞろ通る。子供は鳥のにぎやかに飛んだり鳴いたりするのをおもしろがって、柵につかまって見とれている。しばらくしてかれはまた歩き出した。鷹《たか》だの狐《きつね》だの狸《たぬき》だのいるところを通って、猿が歯をむいたり赤い尻を振り立てているところを抜けて、北極熊や北海道の大きな熊のいるところを通った。孔雀《くじゃく》のみごとな羽もさして興味をひかなかった。かれははいった時と同じようにして出て行った。
東照宮《とうしょうぐう》の前では、女学生がはでな蝙蝠傘《こうもりがさ》をさして歩いていた。パノラマには、古ぼけた日清戦争の画かなんかがかかっていて、札番が退屈そうに欠《あくび》をしていた。
竹の台に来て、かれはまた三たびロハ台に腰をかけた。
眼下に横たわっている大都会、甍《いらか》が甍に続いて、煙突《えんとつ》からは黒いすさまじい煙《けむり》があがっているのが見える。あちこちから起こる物音が一つになって、なんだかそれが大都会のすさまじい叫びのように思われる。ここに罪悪もあれば事業もある。功名もあれば富貴《ふうき》もある。飢餓《きが》もあれば絶望もある。新聞紙上に毎日のようにあらわれて来る三面事故のことなども胸にのぼった。
竹の台からおりると、前に広小路の雑踏《ざっとう》がひろげられた。馬車鉄道があとからあとからいく台となく続いて行く。水撒夫《みずまき》がその中を平気で水をまいて行く。人力車が懸《か》け声ではしって行く。
しばらくして、清三の姿は、その通りの小さい蕎麦屋《そばや》に見られた。
「いらっしゃい!」
と若い婢《おんな》の黄いろい声がした。
「ざる一つ!」
という声がつづいてした。
清三は夕日のさし込んで来る座敷の一隅《かたすみ》で、誂《あつら》えの来る間を、大きな男が大釜の蓋《ふた》を取ったり閉《た》てたりするのを見ていた。釜の蓋を取ると、湯気が白くぱッとあがった。長い竹の箸《はし》でかき回して、ザブザブと水で洗って、それをざるに手で盛った。「お待ち遠さま」と婢《おんな》はそれを膳に載せて運んで来た。足の裏が黒かった。
清三はざるを二杯、天ぷらを一杯食って、ビールを一本飲んだ。酔いが回って来ると、少し元気がついた。
「帰ろう。小畑や加藤を訪問したッてしかたがない」
懐《ふところ》から財布を出して勘定《かんじょう》をした。やがて雑踏の中を停車場に急いで行くかれの姿が見られた。
三十八
荻生さんが和尚《おしょう》さんを訪ねて次のような話をした。
「どうも困りますんですがな」
と荻生さんが例の人のいい調子で、さも心配だという顔をすると、
「それは困りますな」
と和尚さんも言った。
「どうも思うようにいかんもんですから、ついそういうことになるんでしょうけれど……」
「校長からお聞きですか」
「いいえ、校長からじかに聞いたというわけでもないんですけれど……借金もできたようですし、それに清三君が宿直室にいると、女がぞろぞろやって来るんだッて言いますからねえ」
「いったい、あそこは風儀が悪いところですからなア」
「ずいぶんおもしろいんですッて……清三君一人でいると、
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