の小畑もやがて疲れて熟睡《じゅくすい》してしまった。清三は眼がさめて、どうしても眠られない。戸外にはサッと降って通る雨の音が聞こえる。いろいろな感があとからあとから胸をついてきて、胸がいっぱいになる。こうしたやさしい友もある世の中に長く生きたいという思いがみなぎりわたったが、それとともに、涙がその蒼白《あおじろ》い頬をほろほろと伝って流れた。中田の女のことも続いて思い出された。長い土手を夕日を帯びてたどって行く自分の姿がまるでほかの人であるかのようにあざやかに見えた。涙が寝衣《ねまき》の袖《そで》で拭いても拭いても出た。
 翌朝《あくるあさ》、小畑は言った。
「昨夜《ゆうべ》、君はあれからまた起きたね」
「どうも眠られなくってしかたがないから、起きて新聞を読んだ」
「何かごそごそ音がするから、目をあいてみると、君はランプのそばで起きている。君の顔が白くはっきりときわだっていたのが今でも見える」こう言って清三の顔を見て、「夜、寝られないかえ?」
「どうも寝られんで困る」
「やはり神経衰弱だねえ」
 土曜日は半日授業があった。荻生さんは朝早く雨をついて帰った。小畑は校長や清三の授業ぶりを参観したり、教員室で関さんの集めた標本を見たり、時間ごとに教員につれられてぞろぞろと教場から出て来る生徒の群れを見たりしていた。女教員は黄いろい声を立てて生徒を叱った。竹藪《たけやぶ》の中には椿《つばき》が紅く咲いて、その縁《ふち》にある盛《さか》りをすぎた梅の花は雨にぬれて泣くように見えた。清三は袴《はかま》をはいて、やせはてた体《からだ》と蒼白《あおじろ》い顔とを教室の卓《テーブル》の前に浮き出すように見せて、高等二年生に地理を教えていた。午後からは、二人はまた宿直室で話した。三時には馬車が喇叭《らっぱ》を鳴らして羽生から来たが、御者《ぎょしゃ》は今朝荻生さんに頼んでやった豚肉の新聞包みを小使部屋にほうり込むようにして置いて行った。包みの中には葱《ねぎ》と手紙とが添えてあった。手紙には明日《みょうにち》午後から羽生に来い。待っている! と書いてあった。
 雨は終日《しゅうじつ》やまなかった。硬《こわ》い田舎《いなか》の豚肉も二人を淡《あわ》く酔わせるには十分であった。二人は高等師範のことやら、旧友のことやら、戦争のことやらをあかず語った。
「今年はだめだが、来年は一つぜひ検定《けんてい》を受けてみたいんだが」
 と清三は言った。
 日曜日には馬車に乗って羽生に出かけた。旅順が陥落《かんらく》したという評判が盛んであった。まだそんなに早く取れるはずがないという人々もあった。街道を鈴を鳴らして走って行く号外売《ごうがいう》りもあった。荻生さんは、銀行の二階を借りて二人を迎えた。ご馳走にはいり鳥と鶏肉《けいにく》の汁《しる》と豚鍋《ぶたなべ》と鹿子餅《かのこもち》。
「今日はなんだか飯のほうが副食物のようだね」と清三は笑った。
 清三のいないところで、小畑は荻生さんに、
「林君、どうかしてますね、体《からだ》がどうもほんとうじゃないようですね?」
「僕もじつは心配してるんですがね」
「何か悪い病気じゃないだろうか」
「さア――」
「今のうちにすすめて根本から療治させるほうがいいですぜ。手おくれになってはしかたがないから」
「ほんとうですよ」
「持病の胃が悪いんだなんて言ってるけれど――ほんとうにそうかしらん」
「町の医師《いしゃ》は腸が悪いんだッて言うんですけれど」
「しっかりした医師に見せたほうがいいと思うね」
「ほんとうですよ」
 翌日の朝、銀行の二階で三人はわかれた。小畑は清三に言った。
「ほんとうに身体《からだ》をたいせつにしたまえ」

       四十六

 戦争はだんだん歩を進めて来た。定州《ていしゅう》の騎兵《きへい》の衝突《しょうとつ》、軍事公債応募者の好況、わが艦隊の浦塩《うらじお》攻撃、旅順|口外《こうがい》の激戦、臨時議会の開院、第二回閉塞運動、広瀬中佐の壮烈なる戦死、第一軍の出発につれて第二軍の編制、国民は今はまじめに戦争の意味と結果とを自覚し始めた。野はだんだん暖かくなって、菜の花が咲き、菫《すみれ》が咲き、蒲公英《たんぽぽ》が咲き、桃の花が咲き、桜が咲いた。号外の来るたびに、田舎町の軒には日章旗が立てられ、停車場には万歳が唱えられ、畠の中の藁屋《わらや》の付近からも、手製の小さい国旗を振って子供の戦争ごっこしているのが見えた。学校では学年末の日課採点に忙《せ》わしく、続いて簡易な試験が始まり、それがすむと、卒業証書|授与式《じゅよしき》が行なわれた。郡長は卓《テーブル》の前に立って、卒業生のために祝辞《しゅくじ》を述べたが、その中には軍国多事のことが縷々《るる》として説《と》かれた。「皆さんは記念とすべきこの明治三十七年
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