もう新芽がきざし始めた。賽銭《さいせん》箱の前には、額髪《ひたいがみ》を手拭いで巻いた子傅《こもり》が二人、子守歌を調子よくうたっていた。
 昨日の売れ残りのふかし甘薯《いも》がまずそうに並べてある店もあった。雨は細く糸のようにその低《ひく》き軒をかすめた。
 畑にはようやく芽を出しかけた桑、眼もさめるように黄いろい菜の花、げんげや菫《すみれ》や草の生《は》えている畔《あぜ》、遠くに杉や樫《かし》の森にかこまれた豪農の白壁《しらかべ》も見える。
 青縞を織る音がところどころに聞こえる。チャンカラチャンカラと忙しそうな調子がたえず響いて来る。時にはあたりにそれらしい人家も見えないのに、どこで織ってるのだろうと思わせることもある。唄《うた》が若々しい調子で聞こえて来ることもある。
 発戸河岸《ほっとかし》のほうにわかれる路《みち》の角《かど》には、ここらで評判だという饂飩《うどん》屋があった。朝から大釜《おおがま》には湯がたぎって、主《あるじ》らしい男が、大きなのべ板にうどん粉をなすって、せっせと玉を伸ばしていた。赤い襷《たすき》をかけた若い女中が馴染《なじみ》らしい百姓と笑って話をしていた。
 路の曲がったところに、古い石が立ててある。維新前からある境界石で、「これより羽生領《はにゅうりょう》」としてある。
 ひょろ長い榛《はん》の片側並木が田圃《たんぼ》の間に一しきり長く続く。それに沿って細い川が流れて萌《も》え出した水草のかげを小魚《こうお》がちょろちょろ泳いでいる。羽生から大越《おおごえ》に通う乗合馬車が泥濘《どろ》を飛ばして通って行った。
 来る時には、路傍《みちばた》のこけら葺《ぶき》の汚ないだるま[#「だるま」に傍点]屋の二階の屋根に、襟垢《えりあか》のついた蒲団《ふとん》が昼の日ののどかな光に干されて、下では蒼白い顔をした女がせっせと張《は》り物《もの》をしていたが、今日は障子がびっしゃりと閉じられて、日当たりの悪いところには青ごけの生えたのが汚なく眼についた。
 だんだん道が悪くなって来た。拾って歩いてもピシャピシャしないようなところはもうなくなった。足の踵《かかと》を離さないようにして歩いても、すりへらした駒下駄からはたえずハネ[#「ハネ」に傍点]があがった。風が出て雨も横しぶきになって袖《そで》もぬれてしまった。
 羽生の町はさびしかった。時々番傘や蛇の目傘が通るばかり、庇《ひさし》の長く出た広い通りは森閑《しんかん》としている。郵便局の前には為替《かわせ》を受け取りに来た若い女が立っているし、呉服屋の店には番頭と小僧とがかたまって話をしているし、足袋《たび》屋の店には青縞と雲斎織《うんさいお》りとが積《つ》み重ねられたなかで、職人がせっせと足袋《たび》を縫っていた。新式に硝子《がらす》戸の店を造った唐物屋《とうぶつや》の前には、自転車が一個、なかばは軒の雨滴《あまだ》れにぬれながら置かれてある。
 町の四辻には半鐘台《はんしょうだい》が高く立った。
 そこから行田道《ぎょうだみち》はわかれている。煙草屋《たばこや》、うどん屋、医師《いしゃ》の大きな玄関、塀《へい》の上にそびえている形のおもしろい松、吹井《ふきい》が清い水をふいている豪家の前を向こうに出ると、草の生《は》えた溝《みぞ》があって、白いペンキのはげた門に、羽生分署という札がかかっている。巡査が一人、剣をじゃらつかせて、雨の降りしきる中を出て来た。
 それからまた裏町の人家が続いた。多くはこけら葺《ぶき》の古い貧しい家|並《な》みである。馬車屋の前に、乗合馬車が一台あって、もう出るとみえて、客が二三人乗り込んでいた。清三は立ちどまって聞いたが、あいにくいっぱいで乗せてもらう余地がなかった。
 清三の姿はなおしばらくその裏町の古い家並みの間に見えていたが、ふと、とある小さな家の大和障子《やまとしょうじ》をあけてはいって行った。中には中年のかみさんがいた。
「下駄を一つ貸していただきたいんですが……、弥勒《みろく》から雨に降られてへいこうしてしまいました」
「お安いご用ですとも」
 かみさんは足駄《あしだ》を出してくれた。
 足駄《あしだ》の歯はすれて曲がって、歩きにくいこと一通りでなかった。駒下駄《こまげた》よりはいいが、ハネ[#「ハネ」に傍点]はやっぱり少しずつあがった。
 かれはついに新郷《しんごう》から十五銭で車に乗った。

       五

 家は行田町《ぎょうだまち》の大通りから、昔の城址《しろあと》のほうに行く横町にあった。角《かど》に柳の湯という湯屋があって、それと対して、きれいな女中のいる料理屋の入り口が見える。棟割《むねわり》長屋を一軒仕切ったというような軒の低い家で、風雨にさらされて黒くなった大和障子《やまとしょうじ》に糸のよう
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