にのせて出された。校長の細君は挨拶《あいさつ》をしながら、顔の蒼白《あおじろ》い、鼻の高い、眉と眉との間の遠い客の姿を見て、弱々しい人だと思った。次の間《ま》では話をしている間、今年生まれた子がしっきりなしに泣いたが、しかし主《あるじ》はそれをやかましいとも言わなかった。
 襁褓《むつき》があたりに散らばって、火鉢の鉄瓶《てつびん》はカラカラ煮え立っていた。
 中学の話が出る。師範校の話が出る。教授上の経験談が出る。同僚になる人々の噂《うわさ》が出る。清三は思わず興に乗って、理想めいたことやら、家庭のための犠牲ということやらその他いろいろのことを打ち明けて語って、一生小学校の教員をする気はないというようなことまでほのめかした。清三は昨日学校で会った時に似ず、この校長の存外性質のよさそうなところのあるのを発見した。
 校長の語るところによると、この三田ヶ谷という地は村長や子弟の父兄の権力の強いところで、その楫《かじ》を取って行くのがなかなかむずかしいそうである。それに人気もあまりよいほうではない、発戸《ほっと》、上村君《かみむらぎみ》、下村君《したむらぎみ》などいう利根《とね》川寄りの村落では、青縞《あおじま》の賃機《ちんばた》が盛んで、若い男や女が出はいりするので、風俗もどうも悪い。七八歳の子供が卑猥《ひわい》きわまる唄《うた》などを覚えて来てそれを平気で学校でうたっている。
「私がここに来てから、もう三年になりますが、その時分《じぶん》は生徒の風儀はそれはずいぶんひどかったものですよ。初めは私もこんなところにはとてもつとまらないと思ったくらいでしたよ。今では、それでもだいぶよくなったがな」と校長は語った。
 帰る時に、
「明日《あした》は土曜日ですから、日曜にかけて一度|行田《ぎょうだ》に帰って来たいと思いますが、おさしつかえはないでしょうか?」
 かれはこうたずねた。
「ようござんすとも……それでは来週から勤めていただくように……」
 その夜はやはり役場の小使|室《べや》に寝た。

       四

 朝起きると春雨《はるさめ》がしとしとと降っていた。
 ぬれた麦の緑と菜の花の黄いろとはいつもよりはきわだって美しく野をいろどった。村の道を蛇《じゃ》の目《め》傘《がさ》が一つ通って行った。
 清三は八時過ぎに、番傘《ばんがさ》を借りて雨をついて出た。それには三田ヶ谷村役場と黒々と大きく書きつけてあった。
 小川屋のかたわらの川縁《かわべり》の繁みからは、雨滴《あまだ》れがはらはらと傘の上に乱れ落ちた。錆《さ》びた黒い水には蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》が赤い腹を見せている。ふと街道の取つきの家から、小川屋のお種という色白娘が、白い手拭いで髪をおおったまま、傘もささずに、大きな雨滴《あまだ》れの落ちる木陰《こかげ》を急いで此方《こなた》にやって来たが、二三歩前で、清三と顔見合わせて、ちょっと会釈《えしゃく》して笑顔を見せて通り過ぎた。
 学校はまだ授業が始まらぬので、門から下駄箱の見えるほとりには、生徒の傘がぞろぞろと続いた。男生徒も女生徒も多くは包みを腰のところにしょって尻をからげて歩いて来る。雨の降る中をぬれそぼちながら、傘を車の輪のように地上に回して来る頑童《わっぱ》もあれば、傘の柄を頸《くび》のところで押さえて、編棒《あみぼう》と毛糸とを動かして歩いて来る十二三の娘もあった。この生徒らを来週からは自分が教えるのだと思って、清三はその前を通った。
 明方《あけがた》から降り出した雨なので、路《みち》はまだそうたいして悪くなかった。車や馬の通ったところはグシャグシャしているが、拾えば泥濘《どろ》にならぬところがいくらもある。路の縁《ふち》の乾いた土には雨がまだわずかにしみ込んだばかりであった。
 井泉村の役場に助役を訪ねてみたが、まだ出勤していなかった。路に沿った長い汚ない溝《どぶ》には、藻《も》や藺《い》や葦《あし》の新芽や沢瀉《おもだか》がごたごたと生《は》えて、淡竹《またけ》の雨をおびた藪《やぶ》がその上におおいかぶさった。雨滴《あまだ》れがばらばら落ちた。
 路のほとりに軒の傾《かた》むいた小さな百姓家があって、壁には鋤《すき》や犁《くわ》や古い蓑《みの》などがかけてある。髪の乱れた肥った嚊《かかあ》が柱によりかかって、今年生まれた赤児《あかご》に乳を飲ませていると、亭主らしい鬚面《ひげづら》の四十男は、雨に仕事のできぬのを退屈そうに、手を伸ばして大きなあくびをしていた。
 鎮守《ちんじゅ》の八幡宮の茅葺《かやぶき》の古い社殿は街道から見えるところにあった。華表《とりい》のかたわらには社殿修繕の寄付金の姓名と額《たか》とが古く新しく並べて書いてある。周囲《しゅうい》の欅《けやき》の大木には
前へ 次へ
全88ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング