いついて鉛筆を倒《さかさ》にして、ゴムでゴシゴシ消した。今日は少なくとも一生のうちで新しい生活にはいる記念の第一日である。小説ならば、編《パアト》が改まるところである。で、かれは頁《ページ》の裏を半分白いままにしておいて、次の頁から新《あら》たに書き始めた。
 四月二十五日、(弥勒《みろく》にて)……
 一|頁《ページ》ほど簡単に書き終わって、ついでに今日の費用《かかり》を数えてみた。新郷《しんごう》で買った天狗《てんぐ》煙草が十銭、途中の車代が三十銭、清心丹が五銭、学校で取った弁当が四銭五厘、合計四十九銭五厘、持って来た一円二十銭のうちから差引き七十銭五厘がまだ蝦蟇口《がまぐち》の中に残っていた。続いて今度ここに来るについての費用を計算してみた。
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  25.0…………………………認印
  22.0…………………………名刺
   3.5…………………………歯磨および楊子
   8.5…………………………筆二本
  14.0…………………………硯
1,15.0…………………………帽子
1,75.0…………………………羽織
  30.0…………………………へこ帯
  14.5…………………………下駄
―――
4,07.5
[#ここで横書き終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 これに前の七十銭五厘を加えて総計四円七十八銭也と書いて、そしてこの金をつくるについて、父母《ちちはは》の苦心したことを思い出した。わずか一円の金すら容易にできない家庭の憐《あわれ》むべきをつくづく味気《あじき》なく思った。
 夜着《よぎ》の襟《えり》は汚《よご》れていた。旅のゆるやかな悲哀《ひあい》がスウイトな涙を誘《さそ》った。かれはいつかかすかに鼾《いびき》をたてていた。
 翌日は学校の予算表の筆記を頼まれて、役場で一日を暮らした。それがすんでから、父母に手紙を書いて出した。
 夕暮れに校長の家から使いがある。
 校長の家は遠くはなかった。麦の青い畑《はた》のところどころに黄いろい菜の花の一畦《いっけい》が交った。茅葺《かやぶき》屋根の一軒|立《だ》ちではあるが、つくりはすべて百姓家の構《かま》えで、広い入り口、六畳と八畳と続いた室《へや》の前に小さな庭があるばかりで、細君のだらしのない姿も、子供の泣き顔も、茶の間の長火鉢も畳の汚《よご》れて破れたのも、表から来る人の眼にみなうつった。校長の室《へや》には学校管理法や心理学や教育時論の赤い表紙などが見えた。
「君にはほんとうに気の毒でした。実はまだ手筈《てはず》だけで、表向《おもてむ》きにしなかったものだからねえ……」
 と言って、細君の運《はこ》んで来た茶を一杯ついで出して、「君もご存じかもしれないが、平田というあの年の老《よ》った教員、あれがもう老朽でしかたがないから、転校か免職かさせようと言っていたところに、ちょうど加藤さんからそういう話があるッて岸野君が言うもんだから、それでお頼《たの》みしようッていうことにしたのでした。ところが少し貴君《あなた》のおいでが早かったものだから……」
 言いかけて笑った。
「そうでしたか、少しも知りませんものでしたから……」
「それはそうですとも、貴君《あなた》は知るわけはない。岸野さんがいま少し注意してくれるといいんですけれど、あの人はああいうふうで、何事にも無頓着《むとんじゃく》ですからな」
「それじゃその教員がいたんですね?」
「ええ」
「それじゃまだ知らずにおりましたのですか」
「内々は知ってるでしょうけれど……表向きはまだ発表してないんです。二三日のうちにはすっかり村会で決《き》めてしまうつもりですから、来週からは出ていただけると思いますが……」こう言って、少しとぎれて、
「私のほうの学校はみんないい方ばかりで、万事《ばんじ》すべて円《まる》くいっていますから、始めて来た方にも勤めいいです。貴下《あなた》も一つ大いに奮発していただきたい。俸給もそのうちにはだんだんどうかなりますから……」
 煙草《たばこ》を一服吸ってトンとたたいて、
「貴下はまだ正教員の免状は持っていないんですね?」
「ええ」
「じゃ一つ、取っておくほうが、万事|都合《つごう》がいいですな。中学の証明があれば、実科を少しやればわけはありゃしないから……教授法はちっとは読みましたか」
「少しは読んでみましたけれど、どうもおもしろくなくって困るんです」
「どうも教授法も実地に当たってみなくってはおもしろくないものです。やってみると、これでなかなか味が出てくるもんですがな」
 学校教授法の実験に興味《きょうみ》を持つ人間と、詩や歌にあくがれている青年とがこうして長く相対《あいたい》してすわった。点心《ちゃうけ》には大きい塩煎餅《しおせんべい》が五六枚盆
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