宜《じぎ》によればすぐにも使者《ししゃ》をやって、よく聞きただしてみてもいいから、今夜一|晩《ばん》は不自由でもあろうが役場に宿《とま》ってくれとのことであった。教員室には、教員が出たりはいったりしていた。五十ぐらいの平田という老朽《ろうきゅう》と若い背広の関《せき》という准《じゅん》教員とが廊下の柱の所に立って、久しく何事をか語っていた。二人は時々こっちを見た。
 ベルがまた鳴った。校長も教員もみな出て行った。生徒はぞろぞろと潮《うしお》のように集まってはいって来た。女教員は教員室を出ようとして、じろりと清三を見て行った。
 唱歌の時間であるとみえて、講堂に生徒が集まって、やがてゆるやかなオルガンの音が静かな校内に聞こえ出した。

       三

 村役場の一夜《ひとよ》はさびしかった。小使の室《へや》にかれは寝ることになった。日のくれぐれに、勝手口から井戸のそばに出て、平野をめぐる遠い山々のくらくなるのを眺めていると、身も引き入れられるような哀愁《かなしみ》がそれとなく心をおそって来る。父母《ちちはは》のことがひしひしと思い出された。幼いころは兄弟も多かった。そのころ父は足利《あしかが》で呉服屋をしていた。財産もかなり豊かであった。七歳の時没落して熊谷《くまがや》に来た時のことをかれはおぼろげながら覚えている。母親の泣いたのを不思議に思ったのをも覚えている。今は――兄も弟も死んでしまって自分一人になった今は、家庭の関係についても、他の学友のような自由なことはいっていられない。人のいい父親と弱々しく情愛の深い母親とを持ったこの身は、生まれながらにしてすでに薄倖《はっこう》の運命を得てきたのである。こう思うと、例のセンチメンタルな感情が激《はげ》しく胸に迫《せま》ってきて、涙がおのずと押すように出る。
 近い森や道や畠は名残りなく暮れても、遠い山々の頂《いただき》はまだ明るかった。浅間の煙が刷毛《はけ》ではいたように夕焼けの空になびいて、その末がぼかしたように広くひろがり渡った。蛙《かわず》の声がそこにもここにも聞こえ出した。
 ところどころの農家に灯《ともしび》がとぼって、唄《うた》をうたって行く声がどこか遠くで聞こえる。
 かれはじっと立ちつくしていた。
 ふと前の榛《はん》の並木のあたりに、人の来る気勢《けはい》がしたと思うと、華《はな》やかに笑う声がして、足音がばたばたと聞こえる。小川屋に弁当と夜具を取りに行った小使が帰って来たのだと思っていると、夕闇の中から大きな夜具を被《かず》いた黒い影が浮き出すように動いて来て、そのあとに女らしい影がちょこちょこついて来た。
 小使は室のうちにドサリと夜具を置いて、さも重かったというように呼吸《いき》をついたが、昼間掃除しておいた三|分心《ぶじん》の洋燈《らんぷ》に火をとぼした。あたりは急に明るくなった。
「ご苦労でした」
 こう言って、清三が戸内《こない》にはいって来た。
 このとき、清三はそこに立っている娘の色白の顔を見た。娘は携《たずさ》えて来た弁当をそこに置いて、急に明るくなった一室をまぶしそうに見渡した。
「お種坊《たねぼう》、遊んでいくが好《え》いや」
 小使はこんなことを言った。娘はにこにこと笑ってみせた。評判な美しさというほどでもないが、眉《まゆ》のところに人に好かれるように艶《えん》なところがあって、豊かな肉づきが頬《ほお》にも腕にもあらわに見えた。
「お母《っかあ》、加減《あんべい》が悪いって聞いたが、どうだい。もういいかな」
「ああ」
「風邪《かぜ》だんべい」
「寒い思《おも》いをしてはいけないいけないッて言っても、仮寝《うたたね》なぞしているもんだから……風邪《かぜ》を引いちゃったんさ……」
「お母《っかあ》、いい気だからなア」
「ほんとうに困るよ」
「でも、お種坊はかせぎものだから、お母《っかあ》、楽ができらアな」
 娘は黙って笑った。
 しばらくして、
「お客様の弁当は、明日《あした》も持って来るんだんべいか」
「そうよ」
「それじゃ、お休み」
 と娘は帰りかけると、
「まア、いいじゃねえか、遊んでいけやな」
「遊んでなんかいられねえ、これから跡仕舞《あとじま》いしねきゃなんねえ……それだらお休み」と出て行ってしまう。
 弁当には玉子焼きと漬《つ》け物《もの》とが入れられてあった。小使は出流《でなが》れの温《ぬる》い茶をついでくれた。やがて爺《じじい》はわきに行って、内職の藁《わら》を打ち始めた。夜はしんとしている。蛙の声に家も身も埋《う》めらるるように感じた。かれは想像にもつかれ、さりとて読むべき雑誌も持って来なかったので、包みの中から洋紙を横綴《よことじ》にした手帳を出して、鉛筆で日記をつけ出した。
 四月二十五日と前の日に続けて書いて、ふと思
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