》でもあったかと思われるような土手と濠《ほり》とがあって、土手には笹《ささ》や草が一面に繁り、濠には汚ない錆《さ》びた水が樫《かし》や椎《しい》の大木《たいぼく》の影をおびて、さらに暗い寒い色をしていた。その濠に沿って曲《ま》がって一町ほど行った所が役場だと清三は教えられた。かれはここで車代を二十銭払って、車を捨てた。笹藪《ささやぶ》のかたわらに、茅葺《かやぶき》の家が一軒、古びた大和障子《やまとしょうじ》にお料理そば切《きり》うどん小川屋と書いてあるのがふと眼にとまった。家のまわりは畑《はた》で、麦の青い上には雲雀《ひばり》がいい声で低くさえずっていた。
弥勒《みろく》には小川屋という料理屋があって、学校の教員が宴会をしたり飲み食いに行ったりするということをかねて聞いていた。当分はその料理屋で賄《まかな》いもしてくれるし、夜具も貸してくれるとも聞いた。そこにはお種《たね》というきれいな評判な娘もいるという。清三はあたりに人がいなかったのをさいわい、通りがかりの足をとどめて、低い垣から庭をのぞいてみた。庭には松が二三本、桜の葉になったのが一二本、障子の黒いのがことにきわだって眼についた。
垣の隅《すみ》には椿《つぱき》と珊瑚樹《さんごじゅ》との厚い緑の葉が日を受けていた。椿には花がまだ二つ三つ葉がくれに残って見える。
このへんの名物だという赤城《あかぎ》おろしも、四月にはいるとまったくやんで、今は野も緑と黄と赤とで美しくいろどられた。麦の畑を貫《つらぬ》いた細い道は、向こうに見えるひょろ長い榛《はん》の並木に通じて、その間から役場らしい藁葺屋根《わらぶきやね》が水彩《すいさい》画のように見渡される。
応接室は井泉村役場の応接室よりもきれいであった。そこからは吏員《りいん》の事務をとっている室《へや》が硝子窓をとおしてはっきりと見えた。卓《テーブル》の上には戸籍台帳《こせきだいちょう》やら、収税帳《しゅうぜいちょう》やら、願届《ねがいとど》けを一まとめにした書類やらが秩序《ちつじょ》よく置かれて、頭を分けたやせぎすの二十四五の男と五十ぐらいの頭のはげた爺《じじい》とが何かせっせと書いていた。助役らしい鬚《ひげ》の生《は》えた中年者と土地の勢力家らしい肥った百姓とがしきりに何か笑いながら話していたが、おりおり煙管《きせる》をトントンとたたく。
村長は四十五ぐらいで、痘痕面《あばたづら》で、頭はなかば白かった。ここあたりによく見るタイプで、言葉には時々|武州訛《ぶしゅうなまり》が交《まじ》る。井泉村の助役の手紙を読んで、巻き返して、「私は視学からも助役からもそういう話は聞かなかったが……」と頭を傾《かたむ》けた時は、清三は不思議な思いにうたれた。なんだか狐《きつね》につままれたような気がした。視学も岸野もあまり無責在に過ぎるとも思った。
村長はしばらく考えていたが、やがて、「それじゃもう内々転任の話もきまったのかもしれない。今いる平田という教員が評判が悪いので、変えるっていう話はちょっと聞いたことがあるから」と言って、
「一つ学校に行って、校長に会って聞いてみるほうがいい!」
横柄《おうへい》な口のききかたがまずわかいかれの矜持《プライド》を傷つけた。
何もできもしない百姓の分際《ぶんざい》で、金があるからといって、生意気な奴だと思った。初めての教員、初めての世間への首途《かどで》、それがこうした冷淡《れいたん》な幕で開かれようとはかれは思いもかけなかった。
一時間後、かれは学校に行って、校長に会った。授業中なので、三十分ほど教員室で待った。教員室には掛図《かけず》や大きな算盤《そろばん》や書籍や植物標本《しょくぶつひょうほん》やいろいろなものが散らばって乱れていた。女教員《じょきょういん》が一人隅のほうで何かせっせと調べ物をしていたが、はじめちょっと挨拶《あいさつ》したぎりで、言葉もかけてくれなかった。やがてベルが鳴る、長い廊下を生徒はぞろぞろと整列してきて、「別れ」をやるとそのまま、蜘蛛《くも》の子を散らしたように広場に散った。今までの静謐《せいひつ》とは打って変わって、足音、号令《ごうれい》の音、散らばった生徒の騒《さわ》ぐ音が校内に満ち渡った。
校長の背広《せびろ》には白いチョークがついていた。顔の長い、背の高い、どっちかといえばやせたほうの体格で、師範《しはん》校出の特色の一種の「気取《きど》り」がその態度にありありと見えた。知らぬふりをしたのか、それともほんとうに知らぬのか、清三にはその時の校長の心がわからなかった。
校長はこんなことを言った。
「ちっとも知りません……しかし加藤さんがそう言って、岸野さんもご存じなら、いずれなんとか命令があるでしょう。少し待っていていただきたいものですが……」
時
前へ
次へ
全88ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング