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五六軒しかない貸座敷はやがてつきた。一番最後の少し奥に引っ込んだ石菖《せきしょう》の鉢《はち》の格子《こうし》のそばに置いてある家には、いかにも土百姓の娘らしい丸く肥った女が白粉をごてごてと不器用《ぶきよう》にぬりつけて二三人並んでいた。その家から五六軒|藁葺《わらぶき》の庇《ひさし》の低い人家が続いて、やがて暗い畠になる。清三はそこまで行って引き返した。見て通ったいろいろな女が眼に浮かんで、上がるならあの女かあの女だと思う。けれど一方ではどうしても上がられるような気がしない。初心《しょしん》なかれにはいくたび決心しても、いくたび自分の臆病なのをののしってみてもどうも思いきって上がられない。で、今度は通りのまん中を自分はひやかしに来た客ではないというようにわざと大跨《おおまた》に歩いて通った。そのくせ、気にいった女のいる張《は》り見世《みせ》の前は注意した。
河岸《かし》の渡し場のところに来て、かれはしばらく立っていた。月が美しく埠頭《ふとう》にくだけて、今着いた船からぞろぞろと人が上がった。いっそ渡《わた》しを渡って帰ろうかとも思ってみた。けれどこのまま帰るのは――目的をはたさずに帰るのは腑甲斐《ふがい》ないようにも思われる。せっかくあの長い暑い二里の土手を歩いて来て、無意味に帰って行くのもばかばかしい。それにただ帰るのも惜しいような気がする。渡し船の行って帰って来る間、かれはそこに立ったりしゃがんだりしていた。
思いきって立ち上がった。その家には店《みせ》に妓夫《ぎふ》が二人出ていた。大きい洋燈《らんぷ》がまぶしくかれの姿を照らした。張り見世の女郎の眼がみんなこっちに注《そそ》がれた。内から迎える声も何もかもかれには夢中であった。やがてがらんとした室《へや》に通されて、「お名ざし」を聞かれる。右から二番目とかろうじてかれは言った。
右から二番目の女は静枝と呼ばれた。どちらかといえば小づくりで、色の白い、髪の房々《ふさふさ》した、この家でも売れる女《こ》であった。眉と眉との遠いのが、どことなく美穂子をしのばせるようなところがある。
清三にはこうした社会のすべてがみな新らしくめずらしく見えた。引《ひ》き付けということもおもしろいし、女がずっとはいって来て客のすぐ隣にすわるということも不思議だし、台の物とかいって大きな皿に少しばかり鮨《すし》を入れて持って来るのも異様に感じられた。かれは自分の初心《しょしん》なことを女に見破られまいとして、心にもない洒落《しゃれ》を言ったり、こうしたところには通人だというふうを見せたりしたが、二階回しの中年の女には、初心な人ということがすぐ知られた。かれはただ酒を飲んだ。
厠《かわや》は階段《はしご》を下りたところにあった。やはり石菖《せきしょう》の鉢《はち》が置いてあったり、釣《つ》り荵《しのぶ》が掛けてあったりした。硝子《がらす》の箱の中に五分心の洋燈《らんぷ》が明るくついて、鼻緒《はなお》の赤い草履《ぞうり》がぬれているのではないがなんとなくしめっていた。便所には大きなりっぱな青い模様の出た瀬戸焼きの便器が据えてある。アルボースの臭《におい》に交《まじ》って臭い臭気《しゅうき》が鼻と目とをうった。
女の室は六畳で、裏二階の奥にある。古い箪笥《たんす》が置いてあった。長火鉢の落としはブリキで、近在でできたやすい鉄瓶がかかっている。そばに一冊女学世界が置いてあるのを清三が手に取って見ると、去年の六月に発行したものであった。「こんなものを読むのかえ、感心だねえ」と言うと、女はにッと笑ってみせた。その笑顔を美しいと清三は思った。室の裏は物干しになっていて、そこには月がやや傾きかげんとなってさしていた。隣では太鼓と三絃《しゃみせん》の音がにぎやかに聞こえた。
三十二
翌日は昼過ぎまでいた。出る時、女が送って出て、「ぜひ近いうちにね、きっとですよ」と私語《ささや》くように言った。昨夜、床の中で聞いた不幸《ふしあわせ》な女の話が流るるように胸にみなぎった。
渡《わた》しをわたって栗橋に出て昨日の路《みち》を帰るのはなんだか不安なような気がした。土手で知ってる人に会わんものでもない。行田に行ったというものが方角違いの方面を歩いていては人に怪しまれる。で、かれは昨夜聞いておいた鳥喰《とりはみ》のほうの路を選んで歩き出した。初会《しょかい》にも似合わず、女はしんみりとした調子で、その父母の古河《こが》の少し手前の在《ざい》にいることを打ち明けて語った。その在郷に行くにはやはり鳥喰を通って行くのだそうだ。鳥喰の河岸《かし》には上州《じょうしゅう》の本郷に渡る渡良瀬川《わたらせがわ》のわたし場があって、それから大高島まで二里、栗橋に出て行くよりもかえって近いかもしれなかった
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