蝙蝠傘《こうもりがさ》が二個、商人らしい四十ぐらいの男はまぶしそうに夕日に手をかざしていた。船の通る少し下流に一ところ浅瀬があって、キラキラと美しくきらめきわたった。
路は長かった。川の上にむらがる雲の姿の変わるたびに、水脈《すいみゃく》のゆるやかに曲がるたびに、川の感じがつねに変わった。夕日はしだいに低く、水の色はだんだん納戸《なんど》色になり、空気は身にしみわたるようにこい深い影を帯びてきた。清三は自己の影の長く草の上にひくのを見ながら時々みずからかえりみたり、みずからののしったりした。立ちどまって堕落した心の状態を叱《しっ》してもみた。行田の家のこと、東京の友のことを考えた。そうかと思うと、懐《ふところ》から汗によごれた財布を出して、半月分の月給がはいっているのを確かめてにっこりした。二円あればたくさんだということはかねてから小耳《こみみ》にはさんで聞いている。青陽楼《せいようろう》というのが中田では一番大きな家だ。そこにはきれいな女がいるということも知っていた。足をとどめさせる力も大きかったが、それよりも足を進めさせる力のほうがいっそう強かった。心と心とが戦い、情《じょう》と意とが争い、理想と欲望とがからみ合う間にも、体《からだ》はある大きな力に引きずられるように先へ先へと進んだ。
渡良瀬川《わたらせがわ》の利根川に合《がっ》するあたりは、ひろびろとしてまことに阪東《ばんどう》太郎の名にそむかぬほど大河《たいか》のおもむきをなしていた。夕日はもうまったく沈んで、対岸の土手にかすかにその余光《よこう》が残っているばかり、先ほどの雲の名残りと見えるちぎれ雲は縁を赤く染めてその上におぼつかなく浮いていた。白帆がものうそうに深い碧《みどり》の上を滑って行く。
透綾《すきや》の羽織に白地の絣《かすり》を着て、安い麦稈《むぎわら》の帽子をかぶった清三の姿は、キリギリスが鳴いたり鈴虫がいい声をたてたり阜斯《ばった》が飛び立ったりする土手の草路《くさみち》を急いで歩いて行った。人通りのない夕暮れ近い空気に、広いようようとした大河《たいか》を前景にして、そのやせぎすな姿は浮き出すように見える。土手と川との間のいつも水をかぶる平地には小豆《あずき》や豆やもろこしが豊かに繁った。ふとある一種の響きが川にとどろきわたって聞こえたと思うと、前の長い長い栗橋の鉄橋を汽車が白い煙《けむり》を立てて通って行くのが見えた。
土手を下りて旗井《はたい》という村落にはいったころには、もうとっぷりと日が暮れて、灯《あかり》がついていた。ある百姓家では、垣のところに行水盥《ぎょうずいだらい》を持ち出して、「今日は久しぶりでまた夏になったような気がした」などと言いながら若いかみさんが肥《こ》えた白い乳を夕闇の中に見せてボチャボチャやっていた。鉄道の踏切《ふみきり》を通る時、番人が白い旗を出していたが、それを通ってしまうと、上り汽車がゴーと音を立てて過ぎて行った。かれは二三度路で中田への渡《わた》し場《ば》のありかをたずねた[#「たずねた」は底本では「はずねた」]。夜が来てからかれは大胆になった。もう後悔の念などはなくなってしまった。ふと路傍に汚ない飲食店があるのを発見して、ビールを一本傾けて、饂飩《うどん》の盛りを三杯食った。ここではかみさんがわざわざ通りに出て渡船場《わたしば》に行く路を教えてくれた。
十日ばかりの月が向こう岸の森の上に出て、渡船場《わたしば》の船縁《ふなべり》にキラキラと美しく砕《くだ》けていた。肌《はだ》に冷やかな風がおりおり吹いて通って、やわらかな櫓《ろ》の音がギーギー聞こえる。岸に並べた二階家の屋根がくっきりと黒く月の光の中に出ている。
水を越して響いて来る絃歌《げんか》の音が清三の胸をそぞろに波だたせた。
乗り合いの人の顔はみな月に白く見えた。船頭はくわえ煙管《きせる》の火をぽっつり紅《あか》く見せながら、小腰《こごし》に櫓を押した。
十分のちには、清三の姿は張《は》り見世《みせ》にごてごてと白粉《おしろい》をつけて、赤いものずくめの衣服で飾りたてた女の格子の前に立っていた。こちらの軒からあちらの軒に歩いて行った。細い格子の中にはいって、あやうく羽織の袖を破られようとした。こうして夜ごとに客を迎うる不幸福《ふしあわせ》な女に引きくらべて、こうして心の餓《う》え、肉の渇《かわ》きをいやしに来た自分のあさましさを思って肩をそびやかした。廓《くるわ》の通りをぞろぞろとひやかしの人々が通る。なじみ客を見かけて、「ちょいと貴郎《あなた》!」なぞという声がする。格子に寄り合うて何かなんなんと話しているものもある。威勢よくはいってトントン階段を上がって行くものもある。二階からは三絃《しゃみせん》や鼓《つづみ》の音がにぎやかに聞こえた
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