の暑い忙しい中《なか》で、暑中休暇もなしに、不平も言わずに、生活している。友だちのズンズン出て行くのをうらやもうともしない。清三の心持ちでは、荻生さんのようなあきらめのよい運命に従順な人は及びがたいとは思うが、しかしなんとなくあきたらないような気がする。楽しみもなく道楽もなくよくああして生きていられると思う。その日、「どうです、あまりつまらない。一つ料理屋へでも行って、女でも相手にして酒でも飲もうじゃありませんか」と言うと、「酒を飲んだッてつまらない」と言って賛成しなかった。清三は暑い木陰のないほこり道を不満足な心持ちを抱いて学校に帰って来た。

       三十

 盆踊りがにぎやかであった。空は晴れて水のような月夜が幾夜か続いた。樽拍子《たるびょうし》が唄につれて手にとるように聞こえる。そのにぎやかな気勢《けはい》をさびしい宿直室で一人じっとして聞いてはいられなかった。清三は誘われてすぐ出かけた。
 盆踊りのあるところは村のまん中の広場であった。人が遠近からぞろぞろと集まって来る。樽拍子の音がそろうと、白い手拭いをかむった男と女とが手をつないで輪をつくって調子よく踊り始める。上手な音頭取《おんどと》りにつれて、誰も彼も熱心に踊った。
 九時過ぎからは、人がますます多く集まった。踊りつかれると、あとからもあとからも新しい踊り手が加わって来る。輪はだんだん大きくなる。樽拍子はますますさえて来る。もうよほど高くなった月は向こうのひろびろした田から一面に広場を照らして、木の影の黒く地に印《いん》した間に、踊り子の踊って行くさまがちらちらと動いて行く。
 村にはぞろぞろと人が通った。万葉集のかがいの庭のことがそれとなく清三の胸を通った。男はみな一人ずつ相手をつれて歩いている。猥褻《わいせつ》なことを平気で話している。世の覊絆《きはん》を忘れて、この一夜を自由に遊ぶという心持ちがあたりにみちわたった。垣の中からは燈光《あかり》がさして笑い声がした。向こうから女づれが三四人来たと思うと、突然清三は袖《そで》をとらえられた。
「学校の先生!」
「林さん!」
「いい男!」
「林先生!」
 嵐のように声を浴びせかけられたと思ったのも瞬間であった。両手を取られたり後ろから押されたり組んだ白い手の中にかかえ込まれたりして、争おうとする間に二三間たじたじとつれて行かれた。
「何をするんだ、ばか!」
 と言ったがだめだった。
 月は互いに争うこの一群をあきらかに照らした。女のキャッキャッと騒ぐ声があたりにひびいて聞こえた。
「ヤア、学校の先生があまっちょにいじめられている!」と言って笑って通って行くものもあった。樽拍子《たるびょうし》の音が唄につれて、ますます景気づいて来た。

       三十一

 秋季皇霊祭の翌日は日曜で、休暇が二日続いた。大祭の日は朝から天気がよかった。清三はその日大越の老訓導の家に遊びに行って、ビールのご馳走になった。帰途についたのはもう四時を過ぎておった。
 古い汚ない廂《ひさし》の低い弥勒《みろく》ともいくらも違わぬような町並みの前には、羽生通いの乗合馬車が夕日を帯びて今着いたばかりの客をおろしていた。ラムネを並べた汚ない休み茶屋の隣には馬具や鋤《すき》などを売る古い大きな家があった。野に出ると赤蜻蛉《あかとんぼ》が群れをなして飛んでいた。
 利根川の土手はここからもうすぐである。二三町ぐらいしか離れていない。清三はふとあることを思いついて、細い道を右に折れて、土手のほうに向かった。明日は日曜である。行田に行く用事がないでもないが、行かなくってはならないというほどのこともない。老訓導にも校長にも今日と明日は留守《るす》になるということを言っておいた。懐《ふところ》には昨日おりたばかりの半月の月給がはいっている。いい機会だ! と思った心は、ある新しい希望に向かってそぞろにふるえた。
 土手にのぼると、利根川は美しく夕日にはえていた。その心がある希望のために動いているためであろう。なんだかその波の閃《きら》めきも色の調子も空気のこい影もすべて自分のおどりがちな心としっくり相合っているように感じられた。なかばはらんだ帆が夕日を受けてゆるやかにゆるやかに下《くだ》って行くと、ようようとした大河《たいか》の趣《おもむき》をなした川の上には初秋《はつあき》でなければ見られぬような白い大きな雲が浮かんで、川向こうの人家や白壁の土蔵や森や土手がこい空気の中に浮くように見える。土手の草むらの中にはキリギリスが鳴いていた。
 土手にはところどころ松原があったり渡船小屋《わたしごや》があったり楢林《ならばやし》があったり藁葺《わらぶき》の百姓家が見えたりした。渡し船にはここらによく見る機回《はたまわ》りの車が二台、自転車が一個《ひとつ》、
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