。通りすがる時、女どもは路をよけて、笑いたいのをしいて押さえたというような顔をして、男を見ている、からかう気だなということが始めてわかったが、しかしべつだん悪い気もしなかった。侮辱《ぶじょく》されたとも気まりが悪いとも思わなかった。むしろこっちからも相手になってからかってやろうかと思うくらいに心の調子が軽かった。通り過ぎて一二間行ったと思うと、女どもはげたげた笑った。清三がふり返ると一番年かさの女がお出でお出でをして笑っている。こっちでも笑って見せると、ずうずうしく二歩《ふたあし》三歩《みあし》近寄って来て、
「学校の先生さん!」
 一人が言うと、
「林さん!」
「いい男の林さん!」
 と続いて言った。名まで知っているのを清三は驚いた。
「いい男の林さん」もかれには、いちじるしく意外であった。曲がり角でふり返って見ると、女どもは坂の上の路にかたまって、こちらを見ていた。
 川向こうの上州の赤岩付近では、女の風儀の悪いのは非常で、学校の教員は独身ではつとまらないという話を思い出した。なんでもそこでは、先生が独身で下宿などをしてると、夏の夜など五人も六人も押しかけて行って、無理やりにつれ出してしまうという。しかたがないから、夜は鍵《かぎ》をかけておく。こうそこにつとめていた人が話した。かれは心にほほえみながら歩いた。
 だるまやもそこに一二軒はあった。昼間はいやに蒼《あお》い顔をした女がだらしのないふうをして店に出ているが、夜になると、それがみんなおつくりをして、見違ったようにきれいな女になって、客を対手《あいて》にキャッキャッと騒いでいる。だんだん夏が来て、その店の前の棚《たな》の下には縁台が置かれて、夕顔の花が薄暮《はくぼ》の中にはっきりときわだって見える。
「貴郎《あなた》、どうしたんですよ、このごろは」
「だッてしかたがない、忙しいからナア」
「ちゃんと種《たね》は上がってるよ、そんなこと言ったッて」
「種があるなら上げるさ」
「憎らしい、ほんとうに浮気者!」
 ピシャリと女が男の肩を打った。
「痛い! ばかめ」
 と男が打ちかえそうとする。女は打たれまいとする。男の手と女の腕とが互いにからみあう。女は体《からだ》を斜めにして、足を縁台の外に伸ばすと、赤い蹴出《けだ》しと白い腿《もも》のあたりとが見えた。
 清三はそうしたそばを見ぬようにして通った。
 夜はことに驚かれた。路《みち》のほとりに若い男女がいく組みとなく立ち話をしている。闇には、白地の浴衣《ゆかた》がそこにもここにも見える。笑う声があっちこっちにした。
 今年の夏休みがやがて来た。小畑と郁治とは高等師範の入学試験に合格して、この九月からは東京に行くことにきまった。桜井は浅草の工業学校に入学した。その合格の知らせが来たのは五月ごろであったが、かれは心の煩悶《はんもん》をなるたけ表面に出さぬようにして、落ち着いた平凡なふつうの祝い状を三人に出しておいた。六月に、行田に行った時に、ちょっと郁治に会ったが、もう以前のような親しみはなかった。会えば、さすがに君僕で隠すところなく話すが、別れていれば思い出すことがすくなく、したがって、訪問もめったにしなかった。
 美穂子にも一度会った。頻《ほお》のあたりが肥《こ》えて、眼にはやさしい表情があった。けれど清三の心はもうそれがために動かされるほどその影がこくうつっておらなかった。ただ、見知《みし》り越《ご》しの女のように挨拶《あいさつ》して通った。やがて八月の中ごろになって郁治は東京に行った。石川もこのごろは病気で鎌倉に行っている。熊谷の友だちで残っているものは、学校にいるころもそう懇意《こんい》にしていなかった人々ばかりだ。清三もつまらぬから、どこか旅でもしてみようかと思った。けれど母親の苦しい家計を見かねて五円渡してしまったので、財布にはもういくらも残っていない。近所の山にも行かれそうにもない。で、月の二十日には、どうせ狭い暑い家《うち》に寝てるよりは学校の風通しのよい宿直室のほうがいいと思って、弥勒《みろく》へと帰って来た。途中で、久しぶりで成願寺に寄ってみると、和尚《おしょう》さんは昼寝をしていた。
 風通しのよい十畳で話した。和尚さんはビールなどを出してチヤホヤした。ふと、そこに廂髪《ひさしがみ》に結《ゆ》って、紫色の銘仙《めいせん》の矢絣《やがすり》を着て、白足袋をはいた十六ぐらいの美しい色の白い娘が出て来た。
 帰りに荻生さんに会って聞くと、
「あれは、君、和尚さんの姪《めい》だよ。夏休みに東京から来てるんだよ。どうも、田舎《いなか》の土臭い中に育った娘とは違うねえ。どこかハイカラのところがあるねえ」
 こう言って笑った。荻生さんはいぜんとしてもとの荻生さんで、町の菓子屋から餅菓子を買って来てご馳走した。郵便事務
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