街道が栄えた時分には、あれでもなかなかにぎやかなものでしたが、今ではだめですよ。私など、若い時にはそれはよく出かけたものですなア。利根川の渡しをいつも夕方に渡って行くんだが、夕焼けの雲が水にうつって、それはおもしろかったのですよ」と老訓導は笑って語った。
 時には、
「今の若い者はどうもかた過ぎる。学問をするから、どうしてもそんなことはばかばかしくってする気になれんのかしれんが、海老茶《えびちゃ》とか庇髪《ひさしがみ》とかに関係をつけると、あとではのっぴきならんことが起こって、身の破滅になることもある。それに、一人で書《ほん》ばかり読んでいるのは、若い者には好《よ》し悪《あ》しですよ、神経衰弱になったり、華厳《けごん》に飛び込んだりするのはそのためだと言うじゃありませんか。青瓢箪《あおびょうたん》のような顔をしている青年ばかりこしらえちゃ、学問ができて思想が高尚になったって、なんの役にもたたん、ちと若い者は浩然《こうぜん》の気を養うぐらいの元気がなくっちゃいけませんなア」
 などという。
 清三が書籍《ほん》ばかり見て、蒼《あお》い顔をして、一人さびしそうにして宿直室にいると、「あんまり勉強すると、肺病が出ますぜ、少し遊ぶほうがいい。学校の先生だッて、同じ人間だ。そう道徳倫理で束縛《そくばく》されては生命がつづかん」こう言って笑った。校長が師範学校から出た当座、まだ今の細君ができない時分、川越でひどい酌婦にかかって、それがばれそうになって転校した話や、ついこの間までいた師範出の教員が小川屋の娘に気があって、毎晩張りに行った話などをして聞かせたのもやはり、この老訓導であった。宿直室に来てから、清三はいろいろな実際を見せられたり聞かせられたりした。中学校の学窓や親の家や友だちのサアクルや世離れた寺の本堂などで知ることのできないことをだんだん知った。
 発戸《ほっと》のほうに散歩をしだしたのは、田植え唄が野に聞こえるころからであった。花が散ってやがて若葉が新しい色彩を村にみなぎらした。路の角《かど》で機《はた》を織っている女の前に立って村の若者が何かしゃべっていると、女は知らん顔でせっせと梭《おさ》を運んでいる。機《はた》屋の前には機回りの車が一二台置いてあって、物干しに並べてかけた紺糸が初夏の美しい日に照らされている。藍《あい》の匂いがどこからともなくプンとして来る。竹藪の陰からやさしい唄がかすかに聞こえる。
 加須《かぞ》街道方面とはまったく違った感じをかれに与えた。むこうはしんとしている。人気《ひとけ》にとぼしい。娘などもあまり通らない。がいして活気にとぼしいが、こちらはどの家にもこの家にも糸を繰る音と機を織る音とがひっきりなしに聞こえる。村から離れて、田圃《たんぼ》の中に、飲食店が一軒あって夕方など通ると、若い者が二三人きっと酒を飲んでいる。亭主はだらしないふうで、それを相手にむだ話をしている。嚊《かかあ》は汚ない鼻たらしの子供を叱っている。
 発戸《ほっと》の右に下村君《したむらぎみ》、堤《つつみ》、名村《なむら》などという小字《こあざ》があった、藁葺屋根《わらぶきやね》が晨《あした》の星のように散らばっているが、ここでは利根川は少し北にかたよって流れているので、土手に行くまでにかなりある。土手にはやはり発戸|河岸《がし》のようにところどころに赤松が生えていた。しの竹も茂っていた。朝露のしとどに置いた草原の中に薊《あざみ》やら撫子《なでしこ》やらが咲いた。
 土手の上をのんきそうに散歩しているかれの姿をあたりの人々はつねに見た。松原の中にはいって、草をしいて、喪心《そうしん》した人のように、前に白帆のしずかに動いて行くのを見ていることもある。「学校の先生さん、いやに蒼い顔しているだア。女さア欲しくなったんだんべい」と土手下の元気な婆《ばばあ》が言った。機織り女の中にも、清三の男ぶりのいいのに大騒ぎをして、その通るのを待ち受けて出て見るものもある。下村君《したむらぎみ》の村落にはいろうとするところに、大和障子《やまとしょうじ》を半分あけて、せっせと終日機を織っている女がある。丸顔の、眼のぱっちりした、眉《まゆ》の切れのいい十八九の娘であった。清三はわざわざ回り道していつもそこを通った。見かえる清三の顔を娘も見かえした。
 ある時こういうことがあった。土手の松原から発戸のほうに下りようとすると、向こうから機《はた》織り女が三人ほどやって来た。清三はなんの気もなしに近寄って行くと、女どもはげたげた笑っている。一人の女が他の一人を突つくと、一人はまた他の一人を突っついた。清三は不思議なことをしていると思ったばかりで、同じ調子で、ステッキを振りながら歩いて行った。坂には両側からしげった楢《なら》の若葉が美しく夕日に光ってチラチラした
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