かな風にあがるのが見えた。機回《はたまわ》りの車やつかれた旅客などがおりおり通った。
ある夜、学校の前の半鐘が激しく鳴った。竹藪の向こうに出て見ると、空がぼんやり赤くなっている。やがてその火事は手古林《てこばやし》であったことがわかった。翌々日の散歩に、ふと気がつくと、清三はその焼けた家屋の前に立っているのを発見した。この間焼けたのはこの家だなとかれは思った。それは村道に接した一軒家で、藁《わら》でかこった小屋|掛《が》けがもうその隅にできていた。焼けあとには灰や焼け残りの柱などが散らばっていて、井戸側の半分焼けた流しもとでは、襷《たすき》をした女がしきりに膳椀《ぜんわん》を洗っている。小屋掛けの中からは村の人が出たりはいったりしている。かれは平和な田舎に忽然《こつねん》として起こった事件を考えながら歩いた。一夜の不意のできごとのために、一家の運命に大きな頓座《とんざ》を来たすべきことなどをも思いやらぬわけにはいかなかった。金銭のとうとい田舎では新たに一軒の家屋を建てるためにもある個人の一生を激しい労働についやさねばならぬのである。かれはただただ功名に熱し学問に熱していた熊谷や行田の友人たちをこうしたハードライフを送る人々にくらべて考えてみた。続いて日ごとに新聞紙上にあらわれる豪《えら》い人々のライフをも描いてみた。豪い人にはそれはなりたい、りっぱな生活を送りたい。しかし平凡に生活している人もいくらもある。一家の幸福――弱い母の幸福を犠牲にしてまでも、功名におもむかなくってはならぬこともない。むしろ自分は平凡なる生活に甘んずる。こう考えながらかれは歩いた。
寒い日に体《からだ》を泥の中につきさしてこごえ死んだ爺《おやじ》の掘切《ほっきり》にも行ってみたことがある。そこには葦《あし》と萱《かや》とが新芽を出して、蛙《かわず》が音を立てて水に飛び込んだ。森の中には荒れはてた社《やしろ》があったり、林の角《かど》からは富士がよく見えたり、田に蓮華草《れんげそう》が敷いたようにみごとに咲いていたりした。それにこうして住んでみると、聞くともなしに村のいろいろな話が耳にはいる。家事を苦にして用水に身を投げた女の話、旅人《りょじん》にだまされて林の中に引《ひ》っ張《ぱ》り込まれて強姦《ごうかん》された村の子守りの話、三人組の強盗が抜刀《ばっとう》で上村《かみむら》の豪農の家にはいって、主人と細君とをしばり上げて金を奪って行った話、繭《まゆ》の仲買《なかが》いの男と酌婦《しゃくふ》と情死《しんじゅう》した話など、聞けば聞くほど平和だと思った村にも辛い悲しいライフがあるのを発見した。地主と小作人との関係、富者と貧者のはなはだしい懸隔《けんかく》、清い理想的の生活をして自然のおだやかな懐《ふところ》に抱かれていると思った田舎もやっぱり争闘の巷《ちまた》利欲《りよく》の世であるということがだんだんわかってきた。
それに、田舎は存外|猥褻《わいせつ》で淫靡《いんび》で不潔であるということもわかってきた。人々の噂話《うわさばなし》にもそんなことが多い。やれ、どこの娘はどうしたとか、どこのかみさんはどこの誰と不義をしているとか、誰はどこにこっそり妾《めかけ》をかこっておくとか、女のことで夫婦喧嘩が絶えないとか、そういうことがたえず耳を打つ。それに、そうした噂がまんざら虚偽《うそ》でないという証拠《しょうこ》も時には眼にもうつった。
かれは一日《あるひ》、また利根川のほとりに生徒をつれて行ったが、その夜、次のような新体詩を作って日記に書いた。
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松原遠く日は暮れて
利根のながれのゆるやかに
ながめ淋しき村里の
ここに一年《ひととせ》かりの庵《いお》
はかなき恋も世も捨てて
願ひもなくてただ一人
さびしく歌ふわがうたを
あはれと聞かんすべもがな
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かれは時々こうしたセンチメンタルな心になったが、しかしこれはその心の状態のすべてではなかった。村の若い者が夜遅くなってから、栗橋の川向こうの四里もある中田まで、女郎買いに行く話などをもおもしろがって聞いた。大越《おおごえ》から通う老訓導は、酒でものむと洒脱《しゃだつ》な口ぶりで、そこから近いその遊廓《ゆうかく》の話をして聞かせることがある。群馬埼玉の二県はかつて廃娼論《はいしょうろん》の盛んであった土地なので、その管内にはだるまばかり発達して、遊廓がない。足利の福井は遠いし、佐野のあら町は不便だし、ここらから若者が出かけるには、茨城県の古河《こが》か中田《なかだ》かに行くよりほかしかたがない。中田には大越まで乗合馬車の便がある。大越から土手の上を二里ほど行って、利根の渡しをわたれば中田はすぐである。「店があれでも五六軒はありますかなア。昔、奥州
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