棚も見える。
前の広庭には高い物干し竿が幾列《いくなら》びにも順序よく並んでいて、朝から紺糸《こんいと》がずらりとそこに干しつらねられる。糸を繰《く》る座繰《ざぐ》りの音が驟雨《しゅうう》のようにあっちこっちからにぎやかに聞こえる。
機屋のまわりには、賃機《ちんばた》を織る音が盛《さか》んにした。
あたりの村落のしんとしているのに引きかえて、ここには活気が充ちていた。金持ちも多かった。他郷からはいって来た若い男女もずいぶんあった。
発戸《ほっと》は風儀の悪い村と近所から言われている。埼玉新報の三面|種《だね》にもきっとこの村のことが毎月一つや二つは出る。機屋《はたや》の亭主が女工を片端《かたはし》から姦《かん》して牢屋《ろうや》に入れられた話もあれば、利根川に臨《のぞ》んだ崖《がけ》から、越後《えちご》の女と上州《じょうしゅう》の男とが情死《しんじゅう》をしたことなどもある。街道に接して、だるま屋も二三軒はあった。
八月が来ると、盛んな盆踊《ぼんおど》りが毎晩そこで開かれた。学校に宿直していると、その踊る音が手にとるように講堂の硝子《がらす》にひびいてはっきりと聞こえる。十一時を過ぎても容易にやみそうな気勢《けはい》もない。昨年の九月、清三が宿直に当たった時は、ちょうど月のさえた夜で、垣には虫の声が雨のように聞こえていた。「発戸の盆踊りはそれは盛んですが、林さん、まだ行ってみたことがないんですか。それじゃぜひ一度出かけてみなくってはいけませんな……けれど、林さんのような色男はよほど注意しないといけませんぜ、袖《そで》ぐらいちぎられてしまいますからな」と訓導の杉田が笑いながら言った。しかし清三は行ってみようとも思わなかった。ただそのおもしろそうな音が夜ふけまで聞こえるのを耳にしたばかりであった。
そのほかにも、発戸《ほっと》のことについて、清三の聞いたことはいくらもあった。一二年前まではここに男ぶりのいい教員などが宿直をしていると、発戸の女は群れをなして、ずかずかと庭からはいって来て、ずうずうしく話をしていくことなどもあったという。それから生徒を見ても、発戸の風儀の悪いのはわかった。同じ行儀の悪いのでもそこから来る生徒は他とは違っていた。野卑《やひ》な歌を口ぐせに教場で歌って水を満たした茶碗を持って立たせられる子などもあった。
春になって、野に菫《すみれ》が咲くころになると、清三は散歩を始めた。古ぼけた茶色の帽子をかぶった背のすらりとしたやせぎすな姿はそこにもここにも見えた。百姓は学校の若い先生が野川の橋の上に立って、ぼんやりと夕焼けの雲を見ているのを見たこともあるし、朝早く役場の向こうの道を歩いているのに出会うこともあった。役場の小使と立ち話をしていることもあれば、畠にいる人々と挨拶《あいさつ》していることもある。時には、学校の女生徒を、二三人つれて、林の中で花を摘《つ》ませて花束を作らせたりなんかしていることなどもある。
弥勒野《みろくの》の林の角《かど》で、夕暮れの空を写生していると、
「やア、先生だ、先生だ!」
「先生が何か書いてらア」
「やア画を描《か》いてるんだ!」
「あの雲を描いてるんだぜ」
などと近所の生徒がぞろぞろとそのまわりに集まって来る。
「うまいなア、先生は」
「それは当たり前よ、先生じゃねえか」
「あああれがあの雲だ」
「その下のがあの家《うち》だ」
黙って筆を運ばせていると、勝手なことを言ってしゃべっている。どうしてあんなうまく書けるのかと疑うかのように、じっと先生の顔をのぞきこむ子などもあった。翌日学校に行くと、その生徒たちはめずらしいことを見て知っているというふうにそれを他の生徒に吹聴《ふいちょう》した。「先生、昨日書いてた絵を見せてください!」などと言った。
清三はだんだん近所のことにくわしくなった。林の奥に思いもかけぬ一軒家があることも知った。豪農の家の樫《かし》の垣の向こうに楊《やなぎ》の生えた小川があって、そこに高等二年生で一番できる女生徒の家があることをも知った。その家には草の茂った井戸があって桔※[#「槹」の「白」に代えて「自」、168−11]《はねつるべ》がかかっていた。ちょうどその時その娘はそこに出ていた。「お前の家はここだね」と言って通り抜けようとすると、「おっかさん、先生が通るよ!」と言った。母親は小川で後ろ向きになってせっせと何か物を洗っていた。加須《かぞ》に通う街道には畠があったり森があったり榛《はん》の並木があったりした。ある時|楢《なら》の林の中に色のこい菫《すみれ》が咲いていたのを発見して、それを根ごしにして取って来て鉢《はち》に植えて机の上に置いた。村をはずれると、街道は平坦《へいたん》な田圃《たんぼ》の中に通じて、白い塵埃《ちりほこり》がかす
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