。清三の麦稈《むぎわら》帽子は毎年出水につかる木影のない低地《ていち》の間の葉のなかば赤くなった桑畑に見え隠れして動いて行った。行く先には田があったり畠があったりした。川原の草藪《くさやぶ》の中にはやはりキリギリスが鳴いた。
河岸《かし》の渡《わた》し場では赤い雲が静かに川にうつっていた。向こう岸の土手では糸経《いとだて》を着て紺の脚絆《きゃはん》を白い埃《ほこり》にまみらせた旅商人《たびあきんど》らしい男が大きな荷物をしょって、さもさも疲れたようなふうをして歩いて行った。そこからは利根《とね》渡良瀬《わたらせ》の二つの大きな河が合流するさまが手に取るように見える。栗橋の鉄橋の向こうに中田の遊郭の屋根もそれと見える。かれはしばし立ちどまって、別れて来た女のことを思った。
本郷の村落《むら》を通って、路《みち》はまた土手の上にのぼった。昨日向こう岸から見て下った川を今日はこの岸からさかのぼって行くのである。昨日の心地と今日の心地とを清三はくらべて考えずにはいられなかった。おどりがちなさえた心と落ちついたつかれた心! わずかに一日、川は同じ色に同じ姿に流れているが、その間には今まで経験しない深い溝《みぞ》が築かれたように思われる。もう自分は堕落したというような悔いもあった。
麦倉河岸《むぎくらがし》には涼しそうな茶店があった。大きな栃《とち》の木が陰をつくって、冷《つ》めたそうな水にラムネがつけてあった。かれはラムネに梨子《なし》を二個ほど手ずから皮をむいて食って、さて花茣蓙《はなござ》の敷いてある木の陰の縁台を借りてあおむけに寝た。昨夜ほとんど眠られなかった疲労が出て、頭がぐらぐらした。涼しい心地のいい風が川から来て、青い空が葉の間からチラチラ見える。それを見ながらかれはいつか寝入った。
かれが寝ている間、渡し場にはいろいろなことがあった。鶏のひよっ子を猫がねらって飛びつこうとするところを茶店の婆さんはあわてておうと、猫が桑畑の中に入ってニャアニャア鳴いた。渡し舟は着くたびにいろいろな人を下ろしてはまたいろいろな人を載《の》せて行った。自転車を走らせて来た町の旦那衆もあれば、反物《たんもの》を満載した車をひいて来た人足もある。上流の赤岩に煉瓦《れんが》を積んで行く船が二|艘《そう》も三艘も竿を弓のように張って流れにさかのぼって行くと、そのかたわらを帆を張った舟がギーと楫《かじ》の音をさせて、いくつも通った。一時間ほどたって婆さんが裏に塵埃《ごみ》を捨てに行った時には、縁台の上の客は足をだらりと地に下げて、顔を仰向《あおむ》けに口を少しあいて、心地よさそうに寝ていたが、魚釣りに行った村の若者が※[#「竹かんむり/令」、第3水準1−89−59]※[#「竹かんむり/省」、第4水準2−83−57]《びく》を下げて帰る時には、足を二本とも縁台の上に曲げて、肱《ひじ》を枕にして高い鼾《いびき》をかいていた。その横顔を夕日が暑そうに照らした。額には汗がにじみ、はだけた胸からは財布が見えた。
かれが眼をさましたころは、もう五時を過ぎていた。水の色もやや夕暮れ近い影を帯びていた。清三は銀側の時計を出して見て、思いのほか長く寝込んだのにびっくりしたが、落ちかけていた財布をふと開けてみて銭の勘定をした。六円あった金が二円五十銭になっている。かれはちょっと考えるようなふうをしたが、その中から二十銭銀貨を一つ出して、ラムネ二本の代七銭と、梨子《なし》二個の代三銭との釣《つ》り銭《せん》を婆さんからもらって、白銅を一つ茶代に置いた。
大高島の渡しを渡るころには、もう日がよほど低かった。かれは大越の本道には出ずに、田の中の細い道をあちらにたどりこちらにたどりして、なるたけ人目にかからぬようにして弥勒《みろく》の学校に帰って来た。
かれの顔を見ると、小使が、
「荻生さんなア来さしゃったが、会ったんべいか」
「いや――」
「行田に行ったんなら、ぜひ羽生に寄るはずだがッて言って、不思議がっていさっしゃったが、帰りにも会わなかったかな」
「会わない――」
「待っていさッしゃったが、羽生で待ってるかもしんねえッて三時ごろ帰って行かしった……」
「そうか――羽生には寄らなかったもんだから」
こう言ってかれは羽織をぬいだ。
三十三
次の土曜日にも出かけた。その日も荻生さんはたずねて来たがやっぱり不在《るす》だった。行田の母親からも用事があるから来いとたびたび言って来る。けれど顔を見せぬので、父親は加須《かぞ》まで来たついでにわざわざ寄ってみた。べつだん変わったところもなかった。このごろは日課点の調べで忙しいと言った。先月は少し書籍《ほん》を買ったものだから送るものを送られなかったという申しわけをして、机の上にある書籍《ほん》を出して父親
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