むきさびしき夜半の床も、さはれ心静かなれば、さすがに苦しからじ」と日記に書いてみずから独《ひと》り慰めたりした。またある時は、「思うことなくて暮らさばや、わが世の昨日は幸《さち》なきにもあらず、幸《さち》ありしにもあらず」と書いた。またある日の日記には、「昨夜、一個の老鼠《ろうそ》、係蹄《わな》にかかる。哀れなる者よ。汝《なんじ》も運命のしもとを免《まぬ》がれ得ぬ不運児か。ひそかに救《たす》け得させべくば救《たす》けも得さすべきを、われも汝をかくすべき縁《えにし》持つ人間なればぞ、哀れなるものよ、むしろ汝は夜ごとの餌に迷ふよりは、かくてこのままこの係蹄《わな》に終われ。哀れなるものよ」と書いてあった。日曜日を羽生の寺にも行田の家にも行かず、「今日は日曜日、またしても一日をかくてここに過ごさんと一人朝は遅くまでいねたり」と書いて宿直室に過ごした。
 郁治も桜井も小畑も高等師範の入学試験を受けるために浦和に行ったという知らせがあった。孝明天皇祭の日を久しぶりで行田に帰ってみると、話相手になるような友だちはもう一人もいなかった。雪子は例のしらじらしい態度でかれを迎えた。かれはむしろ快活な無邪気なしげ子をなつかしく思うようになった。帰る時、母親は昨日からたんせいして煮てあった鮒《ふな》のかんろ煮を折りに入れて持たせてよこした。
 このごろはまったく世に離れて一人暮らした。新聞もめったには手にしたことはない。第五師団の分捕問題《ぶんどりもんだい》、青森第三連隊の雪中行軍凍死問題《せっちゅうこうぐんとうしもんだい》、鉱毒事件《こうどくじけん》、二号活字は一面と二面とに毎日見える。平生《へいぜい》ならば、新聞を忠実に注意して見るかれのこととて、いろいろと話の種にしたり日記をつけておいたりするのであるが、このごろはそんなことはどうでもよかった。人が話して聞かせても、「そうですか」と言って相手にもならなかった。愛読していた涙香《るいこう》の「巌窟王《がんくつおう》」も中途でよしてしまった。学校の庭の後ろには、竹藪《たけやぶ》が五十坪ほどあって、夕日がいつもその葉をこして宿直室にさしこんで来るが、ある夜、その向こうの百姓家から「福は内、鬼は外」と叫ぶ爺《おやじ》の声がもれて聞こえた。「あ、今日は節分かしらん」と思って、清三は新聞の正月の絵付録日記を出してみた。それほどかれは世事《せじ》にうとく暮らした。
 毎日四時過ぎになると、前の銭湯の板木《はんぎ》の音が、静かな寒い茅葺《かやぶき》屋根の多い田舎の街道に響いた。
 羽生の和尚《おしょう》さんと酒を飲んで、
「どうです、一つ社会を風靡《ふうび》するようなことをやろうじゃありませんか。なんでもいいですから」
 こんなことを言うかと思うと、「自分はどんな事業をするにしても、社会の改良でも思想界の救済でも、それは何をするにしても、人間として生きている上は生きられるだけの物質は得なければならない。そしてそれはなるべく自分が社会につくした仕事の報酬として受けたいと自分は思う。それには自分は小学校の教員からだんだん進んで中学程度の教員になろうか。それとも自分はこの高き美しき小学教員の生涯を以て満足しようか」などと考えることもある。一方には多くの友だちのようにはなばなしく世の中に出て行きたいとは思うが、また一方では小学教員を尊《たっと》い神聖なものにして、少年少女の無邪気な伴侶《はんりょ》として一生を送るほうが理想的な生活だとも思った。友に離れ、恋に離れ、社会に離れて、わざとこの孤独な生活に生きようというような反抗的な考えも起こった。
 ある日校長が言うた。「どうです。そうして毎日宿直室に泊まっているくらいなら、寺から荷物を持って来て、ここに自炊なりなんなりしているようにしたら……。そうすれば、私のほうでもわざわざ宿直を置かないでいいし、君にも間代《まだい》が出なくって経済になる。第一、二里の道を通うという労力がはぶける」羽生の和尚さんもこの間行った時、「いったいどうなさるんです、こうあけていらしっては間代を頂戴するのもお気の毒だし……それに、冬は通うのにずいぶん大変ですからなア」と言った。清三は寺に寄宿するころの心地と今の心地といちじるしく違ってきたことを考えずにはいられなかった。そのころからくらべると、希望も目的も感情もまったく違ってきた。「行田文学」も廃刊した。文学に集まった友の群れも離散《りさん》した。かれ自身にしても、文学書類を読むよりも、絵画の写生をしたり、音楽の譜の本を集めてオルガンを鳴らしてみたりすることが多くなった。それに、行田にもそうたびたびは行きたくなくなった。かれは月の中ごろに蒲団《ふとん》と本箱とを羽生の寺から運んで来た。

       二十七

「喜平《きへい》さんな、とんでもね
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