》ふにはあらねどまたものうく、かくて絵もかけず詩も出でず、この十日は一人過ぎぬ。
□土曜日に荻生君来たり一夜を語る。情《じょう》深く心小さき友!
□加藤は恋に酔《え》ひ、小畑はみずから好んで俗に入る。この間、かれの手紙に曰く「好んで詩人となるなかれ、好んで俗物となるなかれ」と。ああさても好んでしかも詩人となり得ず、さらばとて俗物となり得ず。はては惑《まど》ひのとやかくと、熱き情のふと消え行くらんやう覚えて、失意より沈黙へ、沈黙より冷静に、かくて苦笑に止まらん願ひ、とはにと言はじ、かくてしばしよと思へば悲しくもあらじ。さはれ木枯吹きすさむ夜半《よわ》、幸《さいわい》多《おお》き友の多くを思ひては、またもこの里のさすがにさびしきかな、ままよ万事かからんのみ、奮励《ふんれい》一|番《ばん》飛《と》び出でんかの思ひなきにあらねど、また静かにわが身の運命を思へば……、ああしばしはかくてありなん。
乱るる心を静むるのは幼き者と絵と詩と音楽と。
近き数日、黙々として多く語らず、一人思ひ思ふ。………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
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 こういうふうにかれの日記は続いた。昨年の春ごろにくらべて、心の調子、筆の調子がいちじるしく消極的になったのをかれも気がつかずにはいられなかった。時には昨年の日記帳をひもといて読んでみることなどもあるが、そこには諧謔《かいぎゃく》もあれば洒落《しゃれ》もある。笑いの影がいたるところに認められる。今とくらべて、世の中の実際を知らぬだけそれだけのんきであった。
 消極的にすべてから――恋から、世から、友情から、家庭からまったく離れてしまおうと思うほどその心は傷ついていた。寺の本堂の一|間《ま》はかれにはあまりに寂しかった。それに二里|足《た》らずの路《みち》を朝に夕べに通うのはめんどうくさい。かれは放浪《ほうろう》する人々のように、宿直|室《べや》に寝たり、村の酒屋に行って泊まったり、時には寺に帰って寝たりした。自炊がものういので、弁当をそこここで取って食った。駄菓子などで午餐《ひるめし》をすましておくことなどもある。本堂の一間に荻生さんが行ってみると、主《あるじ》はたいてい留守で、机の上には塵《ちり》が積もったまま、古い新声と明星とがあたりに散らばったままになっている。和尚《おしょう》さんは、「林君、どうしたんですか、あまり久しく帰って来ませんが……学校に何か忙しいことでもあるんですかねえ」と言った。荻生さんが心配して忙しい郵便事務の閑《すき》をみて、わざわざ弥勒《みろく》まで出かけて行くと、清三はべつに変わったようなところもなく、いつも無性《ぶしょう》にしている髪もきれいに刈り込んで、にこにこして出て来た。「どうもこの寒いのに、朝早く起きて通うのが辛いものだからねえ、君、ここで小使といっしょに寝ていれば、小供がぞろぞろやってくる時分までゆっくりと寝ていられるものだから」などと言った。八畳の一間で、長押《なげし》の釘には古袴《ふるばかま》だの三尺帯だのがかけてある。机には生徒の作文の朱で直しかけたのと、かれがこのごろ始めた水彩画の写生しかけたのとが置いてあった。教授が終わって校長や同僚が帰ってから、清三は自分で出かけて菓子を買って来て二人で食った。かれは茶を飲みながら二三枚写生したまずい水彩画を出して友に示した。学校の門と、垣で夕日のさし残ったところと、暮靄《ぼあい》の中に富士の薄く出ているところと、それに生徒の顔の写生が一枚あった。荻生さんは手に取って、ジッと見入って、「君もなかなか器用ですねえ」と感心した。清三はこのごろ集めた譜のついた新しい歌曲をオルガンに合わせてひいてみせた。
 冬はいよいよ寒くなった。昼の雨は夜の霙《みぞれ》となって、あくれば校庭は一面の雪、早く来た生徒は雪達磨《ゆきだるま》をこしらえたり雪合戦《ゆきがっせん》をしたりしてさわいでいる。美しく晴れた軒には雀がやかましく百囀《ももさえずり》をしている。雪の来たあとの道路は泥濘《でいねい》が連日|乾《かわ》かず、高い足駄《あしだ》もどうかすると埋まって取られてしまうことなどもある。乗合馬車は屋根の被《おお》いまではねを上げて通った。
 机の前の障子《しょうじ》にさし残る冬の日影は少なくとも清三の心を沈静させた。なるようにしかならんという状態から、やがて「自己のつくすだけをつくしていさぎよく運命に従おう」という心の状態になった。嘆息《ためいき》と涙とのあとに、静かなさびしいしかし甘い安静が来た。霙《みぞれ》の降る夜半《よわ》に、「夜は寒みあられたばしる音しきりさゆる寝覚《ねざ》めを(母いかならん)」と歌って家の母の情《なさけ》を思ったり、「さ
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