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一月一日。(三十五年)
これは三年の前、小畑と優《ゆう》なる歌《うた》記《しる》さんと企《くわだ》てて綴《つづ》りたるが、その白きままにて今日まで捨てられたるを取り出でて、今年の日記書きて行く。
□去年、それもまだ昨日、終《つい》に世のかくてかかるよと思ひ定めては、またも胸の乱れて口やかましく情《なさけ》とくすべも知らず。草深き里に一人住み、一人|自《みず》から高うせんに如《し》かじ。かくては意気なしと友の笑はんも知らねど、とてもかからねばならぬわが世の運命、それに逆《さから》はん勇なきにはさらさらあらねど、二十余年めぐみ深き母の歎きに、ままよ二年三年はかくてありともくやしからじと思へばこそよ。さてかく行かんとする今年の日記よ、言はじ、ただ世にかしこかれよ、ただ平和なれよ。終《つい》にただ無言なれよ。
□恋は遂《つい》に苦しきもの、われ今またこれを捨つるもくやしからじ。加藤のそれ、かれの心事《しんじ》、懐《ふところ》に剣をかくすを知らぬにあらねど、争はんはさすがにうしろめたく、さらばとてかれもまたかかる人とは思ひ捨てんこそ世にかしこかるべし。
□今日始めて熊谷の小畑に手紙出す。
二日。
昨夜鈴木にて一夜幼き昔を語りあかす。
□ああわれをして少年少女を愛せしめよ。またもかくての世に神は幸《さち》を幼きものにのみ下したまへり、ああわれをして幼きものを愛せしめよ。
□ Art ! それやなんなるぞ、とてもあさましき恋に争はんとにはあらじと思へば、時にいふがごとき冷静も乱れんも知れじを、ああなどて好ましからぬ思ひの添ふぞ、はかなきことなるかな。ああ終《つい》に終にかくてかかるなり。
□夕方西に紅《くれない》の細《ほそ》き雲|棚引《たなび》き、上《のぼ》るほど、うす紫より終に淡墨《うすずみ》に、下に秩父の山黒々とうつくしけれど、そは光あり力あるそれにはあらで、冬の雲は寒く寂しき、例《たと》へんに恋にやぶれ、世に捨てられて終に冷えたるある者の心のごときか。
三日。
昼より風出でて梢《こずえ》鳴《な》ることしきりなり、冬の野は寒きかな、荒《すさ》む嵐《あらし》のすさまじきかな。人の世を寒しと見て野に立てば、さてはいづれに行かん。夕べの迷ひにまたも神に「救へ」と呼ばんの願ひなきにあらず。
四日。
夕方、沢田来る。加藤われらを勧《すす》めて北川にかるた取りに行く。かれやなんらの友情も知らぬもの、友を売りてわが利を得んとするものか。また例の「君の望むことにてわが力にてでき得《う》べき限りにおいて言へ」を言ふ。われ曰く「なし」と。この言《げん》はたして、かれの心よりの言葉か。
五日。
たま/\学友会の大会に招かれて行く。すなはち立ちて、「集会において時間の約を守るべきこと」につきて述《の》ぶ。かくのごとき会合において演壇に立ちしは初めてなれば心少しくためらひなきにあらざりしが、思ひしより冷静をもってをはりたり。余興として小燕林《こえんりん》の講談あり。
六日。
加藤と雪子と鈴木君の妹の君とかるた取る。
□夜、戸の外に西風寒く吹く。ああわれはこの力弱き腕を自己を、高きに進ますすら容易ならざるに、なほも一人の母と一人の父とのために走らざるべからざるか、さもあらばあれ、冷酷なる運命の道にすさむ嵐をしてそのままに荒しめよ。われに思ふ所あり、なんぞ妄《みだ》りに汝《なんじ》の渦中《かちゅう》に落ち入らんや。
 松は男の立ち姿
 意地にゃまけまい、ふけふけ嵐、
 枝は折れよと根は折れぬ(正直正太夫《しょうじきしょうだゆう》)
□このごろの凩《こがらし》に、さては南の森陰に、弟の弱きむくろはいかにあるらん。心のみにて今日も訪はず。かくて明日《みょうにち》は東に行く身なり。
七日。
羽生の寺に帰る。
心にはかくと思ひ定めたれど、さすがに冬枯れの野は淋しきかな。
□○子よ、御身《おんみ》は今はたいかにおはすや。笑止やわれはなほ御身を恋《こ》へり。さはれ、ああさはれとてもかかる世ならばわれはただ一人恋うて一人泣くべきに、何とて御身を煩《わずら》はすべきぞ。
主の僧ととろろ食うて親しく語る。夜、寒し。
九日。
今朝《けさ》、この冬、この年の初雪を見る。
夜、荻生君来たり、わがために炭と菓子とをもたらす。冷やかなる人の世に友の心の温かさよ。願はくばわれをして友に誠ならしめよ。(夜十時半記)
□十日より二十日まで
この間十日余り一日、思ひは乱れて寺へも帰らず。かくて老《お》いんの願ひにはあらねど、さすが人並《ひとなみ》賢《かしこ》く悟りたるものを、さらでも尚とやせんかくやすらんのまどひ、はては神にすがらん力もなくて、人とも多くは言はじな、語らじなと思へば、いとものうくて、日ごろ親しき友に文《ふみ》書《か》かんも厭《い》や、行田へ行かんも厭《いと
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