のが清三にはこの上なくつらかった。北川にも行ってみようとは時々思うが、なんだか女々《めめ》しいような気がしてよした。散歩もこのごろは野が寒く、それにあたりに見るものもなかった。かれは退屈すると一軒おいて隣の家に出かけて行って、日当たりのいい縁側に七|歳《つ》八|歳《つ》ぐらいの娘《むすめ》の児を相手に、キシャゴ弾《はじ》きなどをして遊んだ。
髪の長い眉《まゆ》の美しい児《こ》がその中にあった。警察に転任して来た警部とかの娘で、まだ小学校へもあがらぬのに、いろはも数学もよく覚えていた。百人一首もとびとびに暗誦《あんしょう》して、恋歌などを無意味なかわいい声で歌って聞かせた。清三は一から十六までの数を加減して試みてみたが、たいていはまちがいなくすらすらと答えた。かれはセンチメンタルな心の調子で、この娘の児《こ》のやがて生いたたん行く末を想像してみぬわけにはいかなかった。「幸あれよ。やさしき恋を得よ」こう思ったかれの胸には限りなき哀愁がみなぎりわたった。
熊谷に出かけた日は三十日で、西風が強く吹いた。小島も桜井も東京から帰っていた。小畑はことに熱心にかれを迎えた。けれどかれの心は昔のように快活にはなれなかった。旧友はみな清三の蒼い顔に沈んだ調子と消極的な言葉とをあやしみ見た。清三はまたいっそう快活になった友だちに対してなんだか肩身が狭《せま》いような気がした。
熊谷の町はにぎやかであった。ここでは注連《しめ》飾りが町家の軒《のき》ごとに立てられて、通りの角《かど》には年の暮れの市が立った。橙《だいだい》、注連《しめ》、昆布《こんぶ》、蝦《えび》などが行き通う人々の眼《め》にあざやかに見える。どの店でも弓張《ゆみは》り提灯《ちょうちん》をつけて、肴屋《さかなや》には鮭、ごまめ、数の子、唐物屋《とうぶつや》には毛糸、シャツ、ズボン下などが山のように並べられてある。夜は人がぞろぞろと通りをひやかして通った。
大晦日《おおみそか》の朝、清三はさびしい心を抱いて、西風に吹かれながら、例の長い街道をてくてくと行田に帰った。いまさらに感ぜられるのは、境遇につれて変わり行く人々の感情であった。昨年の今ごろ、こうしたことがあろうとは夢にも思っておらなかった。親しい友だちの間柄がこういうふうに離れ離れになろうとは知らなかった。人は境遇の動物であるという言葉をかれはこのごろある本で読んだことがある。その時は、そんなことがあるものかとよそごとに思ってすてた。けれどそれは事実であった。
家に帰ってみると、借金取りはあっちこっちから来ていた。母親がいちいち頭を下げて、それに応対しているさまは見るにしのびない。父親は勘定が取れぬので、日の暮れるころ、しょぼしょぼとしおたれた姿で帰って来る。「あゝあゝ、しかたがねえ!」と長大息《ためいき》をついて、予算の半分ほどもない財布を母に渡した。清三は見かねて、金をまた二円出した。
夜になってから、母親は巾着《きんちゃく》の残りの銭をじゃらじゃら音をさせながら、形《かたち》ばかりの年越しをするために町に買い物に行った。のし餅を三枚、ゴマメを一袋、鮭を五切れ、それに明日の煮染《にしめ》にする里芋を五合ほど風呂敷に包んで、重い重いと言ってやがて帰って来た。その間に父親は燈明を神棚《かみだな》と台所と便所とにつけて、火鉢には火をかっかっと起こしておいた。やがて年越しの膳《ぜん》はできる。
父親ははげた頭を下げて、しきりに神棚を拝んでいたが、やがて膳に向かって、「でも、まあ、こうして親子三人年越しのお膳に向かうのはめでたい」と言って、箸《はし》を取った。豆腐汁に鮭、ゴマメは生《なま》で二|疋《ひき》ずつお膳につけた。一室は明るかった。
母親は今夜中に仕立ててしまわねばならぬ裁縫物《しごと》があるので、遅くまでせっせと針を動かしていた。清三はそのそばで年賀状を十五枚ほど書いたが、最後に毎日つける日記帳を出して、ペンで書き出した。
[#ここから3字下げ]
三十一日。
今歳《ことし》もまた暮れ行く。
思ひに思ひ乱れてこの三十四年も暮れ行かんとす。
思ふまじとすれど思はるるは、この年の暮れなり。
かくて最後の決心はなりぬ。
無言[#「無言」に丸傍点]、沈黙[#「沈黙」に丸傍点]、実行[#「実行」に丸傍点]。
われは運命に順《したが》ふの人ならざるべからず。とても、とても、かくてかかる世なれば、われはた多くは言はじ。
明星、新声来る。
ああ終《つい》に終に三十四年は過ぎ去りぬ。わが一生において多く忘るべからざる年なりしかな。
言はじ、言はじ、ただ思ひいたりし一つはこれよ、曰く、かかる世なり、一人言はで、一人思はむ。ああ。
[#ここで字下げ終わり]
かれは日記帳を閉じてそばにやって新着の明星を読み出した。
二十
前へ
次へ
全88ページ中45ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング