くもあり腹立しくもあり気の毒にもなった。清三はただフンフンと言って聞いた。
「その代わり僕は僕のできる限りにおいて、君のために尽力《じんりょく》するさ!」
こんなことを[#「 こんなことを」は底本では「こんなことを」]郁治はいく度も言った。
「小畑もそんなことを言っていたよ。僕だッて、君の心地《こころもち》ぐらいは知っているさ」
こんなことをも言った。
郁治はまた石川のこのごろ溺《おぼ》れている加須《かぞ》の芸者の話をした。
「先生、このごろは非常に熱心だよ。君も知ってるだろうが、自転車を買ってね、遠乗《とおの》りをするんだとかなんとか言って、毎日のように出かけて行くよ。東京から来た小蝶《こちょう》とかいう女で、写真を大事にして持っていたよ。金持ちの息子なんていうものの心はまるでわれわれとは違うねえ君。勉強なんぞしないでも、りっぱに一人前になっていかれるんだからねえ」
できるだけの力をつくすと言った言葉、その言葉の陰に雪子がいることを清三はあきらかに知っていた。けれどそれが清三にはあまりうれしくは思われなかった。つんとすました雪子の姿が眼の前を通ってそして消えた。かれはいまさらに美穂子の姿のいっそう強い影をその心に印《いん》しているのを予想外に思った。こういう道行《みちゆ》きになるのはかれもかねてよく知っていたことである。ある時はそうなるのを友のために祈ったことすらある。けれど想像していた時と事実となった時との感ははなはだしく違った。
清三の心はさびしかった。自己の境遇が実際生活の上からも、恋愛の上からも、学問修業という上からも、ますます消極的に傾いてきて、たとえば柱と柱との間に小さく押しつけられてしまったような気がした。初めはどうしても酔わなかった酒が、あとになるとその反動で激しく発して来て、帰るころには、歌をうたったり詩を吟じたりして郁治を驚かした。
しかし一段落を告げたというような気がないでもなかった。恋を失ったのはつらいが、恋に自由を奪われなかったのはうれしいような気もする。今までの友だちに対しての心持ちも少しく離れて、かえって自己をあきらかに眼の前に見るように思った。
かれは懐《ふところ》に金を七円持っていた。その中のいく分を父母の補助に出すつもりであったが、旅行をする気がないでもないので、わざとそれをしまっておいた。年の暮れももう近寄って来た。西風が毎日のように関東平野の小さな町に吹きあれた。乾物屋《かんぶつや》の店には数の子が山のように積まれ、肴屋《さかなや》には鮭が板台《はんだい》の上にいくつとなく並べられた。旧暦《きゅうれき》で正月をするのがこの近在の習慣なので、町はいつもに変わらずしんとして、赤い腰巻をした田舎娘も見えなかった。郡役所と警察署と小学校とそれにおもだった富豪《かねもち》などの注連飾《しめかざ》りがただ目に立った。
六畳には炬燵《こたつ》がしてあった。清三は多くそこに日を暮らした。雑誌を読んだり、小説を読んだり、時には心理学をひもといてみることなどもあった。そばでは母親が賃仕事《ちんしごと》のあい間を見て清三の綿衣《わたいれ》を縫っていた。午後にはどうかすると町へ行って餅菓子を買って来て茶をいれてくれることなどもある。一夜《あるよ》凩《こがらし》が吹き荒れて、雨に交って霙《みぞれ》が降った。父と母と清三とは炬燵《こたつ》を取りまいて戸外《おもて》に荒るるすさまじい冬の音を聞いていたが、こうした時に起こりかけた一家の財政の話が愚痴《ぐち》っぽい母親の口から出て、借金の多いことがいく度となくくり返された。
「どうも困るなア」
清三は長大息《ためいき》を吐《つ》いた。
「いま少し商売がうまく行くといいんだが、どうも不景気でなア。何をやったッてうまいことはありやしない」
父親はこう言った。
「ほんとうにお前には気の毒だけれど毎月いま少し手伝ってもらわなくっては――」母親は息子《むすこ》の顔を見た。
「それは私は倹約をしているんですよ、これで……」と清三は言って、「煙草もろくろく吸わないぐらいにしているんですけれど……」
「お前にはほんとうに気の毒だけれど……」
「父《おとっ》さんにもいま少しかせいでもらわなくっちゃ――」
清三は父に向かって言った。
父は黙っていた。
財政の内容を持ち出して、母親がくどくどとなお語《かた》った。清三は母親に同情せざるを得なかった。かれは熱心に借金の不得策《ふとくさく》なのを説いて、貧しければ貧しいように生活しなければならぬことを言った。最後にかれはしまっておいた金を三円出して渡した。
友だちを訪問しても、もう以前のようにおもしろくなかった。郁治はたえずやって来るが、こっちからはめったに出かけて行かない。会うとかならず美穂子の話が出る。それを聞く
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