ず。
何《なん》んぞや一|婦《ぷ》の痴《ち》に酔《え》ひて、
俗の香《か》巷《ちまた》に狂ふ。
あゝ止《や》みなんか、また前日の意気なきや。
終《つい》に止みなんか、卿等《けいら》の痴態《ちたい》!
[#ここで字下げ終わり]
 さて最後に咄《とつ》! という字を、一字書いて、封筒に入れてみたが、これでは友に警告するのになんだかはなはだふまじめになるような気がする。いろいろ考えたすえ、「こんなことはつまらぬ、言ってやったってしかたがない」と思って破って捨てた。
 初冬の暖かい日はしだいに少なくなって、野には寒い寒い西風が吹き立った。日向《ひなた》の学校の硝子《がらす》にこの間まで蠅《はい》がぶんぶん飛んでいたが、それももう見えなくなった。田の刈ったあとの氷が午後まで残っていることもある。黄いろく紅《あか》く色づいた楢《なら》や榛《はん》や栗の林も連日の西風にその葉ががらがらと散って、里の子供が野の中で、それを集めて焚火《たきび》などをしているのをよく見かける。大越街道を羽生の町へはいろうとするあたりからは、日光の山々を盟主にした野州《やしゅう》の連山がことにはっきりと手にとるように見えるが、かれはいつもそこに来ると足をたたずめて立ちつくした。かれの故郷なる足利町は、その波濤《はとう》のように起伏した皺《しわ》の多い山の麓《ふもと》にあった。一日《あるひ》、かれはその故郷の山にすでに雪の白く来たのを見た。
 和尚さんも長い夜を退屈がって、よく本堂にやって来て話した。夜など茶をいれましたからと小僧を迎えによこすこともある。庫裡《くり》の奥の六畳、その間には、長火鉢に鉄瓶《てつびん》が煮えたって、明るい竹筒台《たけづつだい》の五分心の洋燈《らんぷ》のもとに、かみさんが裁縫をひろげていると、和尚さんは小さい机をそのそばに持って来て、新刊の雑誌などを見ている。さびしい寺とは思えぬほどその一|間《ま》は明るかった。茶請《ちゃうけ》は塩|煎餅《せんべい》か法事でもらったアンビ餅で、文壇のことやそのころの作者|気質《かたぎ》や雑誌記者の話などがいつもきまって出たが、ある夜、ふと話が旅行のことに移って行った。和尚さんはかつて行っていた伊勢《いせ》の話を得意になって話し出した。主僧は早稲田を出てから半歳《はんとし》ばかりして、伊勢の一身田《いしんでん》の専修寺の中学校に英語国語の教師として雇われて二年ほどいた。伊勢の大廟《たいびょう》から二見の浦、宇治橋の下で橋の上から参詣《さんけい》人の投げる銭《ぜに》を網で受ける話や、あいの山で昔女がへらで銭《ぜに》を受けとめた話などをして聞かせた。朝熊山《あさまやま》の眺望、ことに全渓《ぜんけい》みな梅《うめ》で白いという月ヶ瀬の話などが清三のあくがれやすい心をひいた。それから京都奈良の話もその心をひき寄せるに十分であった。和尚さんの行った時は、ちょうど四月の休暇のころで、祇園《ぎおん》嵐山《あらしやま》の桜は盛《さか》りであった。
「行違ふ舞子の顔やおぼろ月」という紅葉山人《こうようさんじん》の句を引いて、新京極《しんきょうごく》から三条の橋の上の夜のにぎわいをおもしろく語った。その時は和尚さんもうかれ心になって雪駄《せった》を買って、チャラチャラ音をさせて、明るいにぎやかな春の町を歩いたという。奈良では大仏、若草山、世界にめずらしいブロンズの仏像、二千年昔の寺院などいうのをくまなく見た。清三の孤独なさびしい心はこれを聞いて、まだ見ぬところまだ見ぬ山水《さんすい》まだ見ぬ風俗にあくがれざるを得なかった。「一生のうち一度は行ってみたい」こう思ってかれは自己のおぼつかない前途を見た。
 年の暮れはしだいに近寄って来た。行田の母からは、今年の暮れはあっちこっちの借銭《しゃくせん》が多いから、どうか今から心がけて、金をむやみに使ってくれぬようにと言ってよこした。蒲団が薄いので、蝦《えび》のようにかがめて寝る足は終夜《しゅうや》暖まらない。宅《うち》に言ってやったところでだめなのは知れているし、でき合いを買う余裕もないので、どうかして今年の冬はこれで間に合わせるつもりで、足のほうに着物や羽織や袴《はかま》をかけたが、日ごとにつのる夜寒《よさむ》をしのぐことができなかった。やむなくかれは米ずしから四布蒲団《よのぶとん》を一枚借りることにした。その日の日記に、かれは「今夜よりやうやく暖かに寝ることを得」と書いた。
 行田から羽生に通う路は、吹きさらしの平野のならい、顔も向けられないほど西風が激しく吹きすさんだ。日曜日の日の暮れぐれに行田から帰って来ると、秩父の連山の上に富士が淡墨色《うすずみいろ》にはっきりと出ていて、夕日が寒く平野に照っていた。途中で日がまったく暮れて、さびしい田圃道《たんぼみち》を一人てくてくと歩いて
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