った。
 その夜は学校にとまった。翌日は午後から雨になった。黄いろく色づき始めた野の楢林《ならばやし》から雨滴《あまだ》れがぽたぽた落ちる。寺に帰ってみると、障子がすっかりはりかえられて、室《へや》が明るくなっている。荻生さんが天長節の午後から来て、半日かかってせっせとはって行ったという。その友情に感激して、その後会った時に礼を言うと、「あまり黒くなっていたから……」と荻生さんはべつになんとも思っていない。「君は僕の留守に掃除はしてくれる、ご馳走は買っておいてくれる、障子ははりかえてくれる。まるで僕の細君みたようだね」と清三は笑った。和尚さんも、「荻生君はほんとうにこまめで親切でやさしい。女だと、それはいい細君になるんだッたが惜しいことをしました」こういってやっぱり笑った。
 晴れた日には、農家の広場に唐箕《とうみ》が忙《せ》わしく回った。野からは刈り稲を満載《まんさい》した車がいく台となくやって来る。寒くならないうちに晩稲《おくて》の収穫《しゅうかく》をすましてしまいたい、蕎麦《そば》も取ってしまいたい、麦も蒔《ま》いてしまいたい。百姓はこう思ってみな一生懸命に働いた。十月の末から十一月の初めにかけては、もう関東平野に特色の木枯《こがらし》がそろそろたち始めた。朝ごとの霜は藁葺《わらぶき》の屋根を白くした。
 寺の庫裡《くり》の入り口の広場にも小作米《こさくまい》がだんだん持ち込まれる。豊年でもなんとか理屈をつけてはかりを負けてもらう算段に腐心《ふしん》するのが小作人の習いであった。それにいつも夕暮れの忙《せ》わしい時分を選《えら》んで馬に積んだり車に載せたりして運んで来た。和尚さんは入り口に出て挨拶して、まずさし[#「さし」に傍点]で、俵から米を抜いて、それを明るい戸外《おもて》に出して調べてみる。どうもこんな米ではしかたがないとか、あそこはこんな悪い米ができるはずがないがとかいろいろな苦情を持ち出すと、小作人は小作人で、それ相応な申しわけをして、どうやらこうやら押しつけて帰って行く。豆を作ったものは豆を持って来る。蕎麦《そば》をつくったものは蕎麦粉を納めに来る。「来年は一つりっぱにつくってみますから、どうか今年はこれで勘弁《かんべん》していただきたい。」誰もみんなそんなことを言った。
「どうも小作人などというものはしかたがないものですな」と和尚《おしょう》さんは清三に言った。
 収穫《とりいれ》がすむと、町も村もなんとなくにぎやかに豊かになった。料理屋に三味線の音が夜更けまで聞こえ、市日《いちび》には呉服屋唐物屋の店に赤い蹴出《けだ》しの娘をつれた百姓なども見えた。学校の宿直室に先生のとまっているのを知って、あんころ餅を重箱にいっぱい持って来てくれるのもあれば、鶏《にわとり》を一羽料理して持って来てくれるものもある。寺では夷講《えびすこう》に新蕎麦をかみさんが手ずから打って、酒を一本つけてくれた。
 木枯の吹き荒れた夜の朝は、楢《なら》や栗の葉が本堂の前のそこここに吹きためられている。銀杏《いちょう》の葉はすっかり落ちつくして、鐘楼《しょうろう》の影がなんとなくさびしく見える。十一月の末には手水鉢《ちょうずばち》に薄氷が張った。
 行田の友だちも少なからず変わったのを清三はこのごろ発見した。石川は雑誌をやめてから、文学にだんだん遠ざかって、訪問しても病気で会われないこともある。噂《うわさ》では近ごろは料理屋に行って、女を相手に酒を飲むという。この前の土曜日に、清三は郁治と石川と沢田とに誘われて、このごろ興行している東京の役者の出る芝居に行ったが、友の調子もいちじるしくさばけて、春あたりはあえて言わなかった戯談《じょうだん》などをも人の前で平気で言うようになった。郁治の調子もなんとなくくだけて見えた。清三ははしゃぐ友だちの群れの中で、さびしい心で黙って舞台を見守った。
 二幕目が終わると、
「僕は帰るよ」
 こう言ってかれは立ち上った。
「帰る?」
 みんなは驚いて清三の顔を見た。戯談《じょうだん》かと思ったが、その顔には笑いの影は認められなかった。
「どうかしたのか」
 郁治はこうたずねた。
「うむ、少し気分が悪いから」
 友だちはそこそこに帰って行く清三の後ろ姿を怪訝《けげん》そうに見送った。後ろで石川の笑う声がした。清三は不愉快な気がした。戸外《おもて》に出るとほっとした。
 それでも郁治とは往来したが、もう以前のようではなかった。
 一夜《あるよ》、清三は石川に手紙を書いた。初めはまじめに書いてみたが、あまり余裕《よゆう》がないのを自分で感じて、わざと律語《りつご》に書き直してみた。
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意気を血を、叫ぶ声先づ消えて、
さてはまた、野に霜|結《むす》んで枯るるごと、
卿等《けいら》の声はまた立た
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