の寺で、遊び仲間の子供たちといっしょに、風の吹いた朝を待ちつけて、銀杏の実を拾ったことを思い出した。それがまだ昨日のように思われる。そこに現に子供の群れの中に自分もいっしょになって銀杏を拾っているような気もする。月日がいつの間にかたって、こうして昔のことを考える身となったことが不思議にさえ思われた。このごろは学校でオルガンに新曲を合わせてみることに興味をもって、琴の六段や長唄の賤機《しずはた》などをやってみることがある。鉄幹《てっかん》の「残照」は変ロ調の4/4[#「4/4」は分数]でよく調子に合った。遅くまでかかって熱心に唱歌の楽譜を浄写《じょうしゃ》した。
月の初めに、俸給の一部をさいて、枕時計を買ったので、このごろは朝はきまって七時には眼がさめる。それに、時を刻《きざ》むセコンドの音がたえず聞こえて、なんだかそれが伴侶《ともだち》のように思われる。一人で帰って来ても、時計が待っている。夜|更《ふ》けに目がさめてもチクタクやっている。物を思う心のリズムにも調子を合わせてくれるような気がする。かれは小畑にやる端書《はがき》に枕時計の絵をかいて、「この時計をわが友ともわが妻とも思ひなしつつ、この秋を寺籠《てらごも》りするさびしの友を思へ」と言ってやった。学校からの帰途には、路傍の尾花《おばな》に夕日が力弱くさして、蓼《たで》の花の白い小川に色ある雲がうつった。かれは独歩《どっぽ》の「むさし野」の印象をさらに新しく胸に感ぜざるを得なかった。寺の前の不動堂《ふどうどう》の高い縁側には子傅《こもり》の老婆がいつも三四人|集《たか》って、手拍子をとって子守唄を歌っている。そのころ裏の林は夕日にかがやいて、その最後の余照《よしょう》は山門の裏の白壁《しらかべ》の塀にあきらかに照った。
荻生さんはいつもやって来た。いっしょに町に出て、しるこを食うことなどもあった。「それは僕だってのんきにばかりしているわけではありませんさ。けれどいくら考えたってしかたがないですもの、成るようにしきゃならないんですもの」荻生さんは清三のつねに沈みがちなのを見て、こんなことを言った。荻生さんは清三のつねに悲しそうな顔をしているのを心配した。
後《のち》の月は明るかった。裏の林に野分の渡るのを聞きながら、庫裡の八畳の縁側に、和尚さんと酒を飲んだ。夜はもう寒かった。轡虫《くつわむし》の声もかれがれに、寒そうにコオロギが鳴いていた。
秋は日に日に寒くなった。行田からは袷《あわせ》と足袋とを届けて来る。
二十二
小畑から来た手紙の一。
[#ここから2字下げ]
今日、ある人(しひて名を除《のぞ》く)から聞けば、君と加藤の姉との間には多少の意義があるとのことに候ふが、それはほんたうか如何《いかに》、お知らせくだされたく候《そうろう》。
先日、加藤に会ひし時、それとなく聞きしに、そんなことは知らぬと申し候。けれどこれは兄《あに》が知らぬからとて、事実無根とは断言出来|難《がた》しなど笑ひ申し候。君にも似合はぬ仕事かな。ある事はありてよし、なきことはなくてよし。一|臂《ぴ》の力を借《か》さぬでもないのに、なんとか返事ありたく候。
加藤の浮かれ加減《かげん》はお話にもならず、手紙が浦和から来たとて、その一節を写してみてくれろといふ始末、存外熱くなりておれることと存じ候。
秋寒し、近況|如何《いか》。
[#ここで字下げ終わり]
手紙の二。
[#ここから3字下げ]
お返事|難有《ありがと》う。
そんなことをしていられるかどうか考えてみよとのご反問の手厳《てきび》しさ。君の心はよくわかった。
けれど、「あんなおしゃらくは嫌ひだ」は少しひどすぎたりと思ふ。あの背《せい》の高い後ろ姿のいいところが気に入る人もあるよ。またあの背の高いお嫌ひな人が君でなくってはならなかったらどうする。
「嫌ひだ」と言うたからとて、さうかほんたうに嫌ひだったのかと新事実を発見したほどに思ふやうな僕にては無之候《これなくそうろう》。かう申せばまた誤解呼《ごかいよば》はりをするかもしれねど、簡単に誤解呼はりをする以上の事実があるのを僕は確《たし》かな人から聞いたの故《ゆえ》だめに候。
この次の日曜には、行田からいま一|息《いき》車《くるま》を飛ばしてやって来たまへ。この間、白滝《しらたき》の君に会ったら、「林さん、お変りなくって?」と聞いていた。また例の蕎麦《そば》屋でビールでも飲んで語らうぢゃないか。小島からこの間便りがあった。このごろに杉山がまた東京の早稲田《わせだ》に出て行くさうだ。歌を難有う。思はんやさはいへそぞろむさし野に七里を北へ下野《しもつけ》の山、七里を北といへば足利《あしかが》ではないか。君の故郷ぢゃないか。いつか聞いた君のフアストラヴの追憶《おもいで》ではないか
前へ
次へ
全88ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング