かに、野には薄《すすき》の白い穂が風になびいた。ふと、路《みち》の角《かど》に来ると、大きな包みを背負《せお》って、古びた紺の脚絆《きゃはん》に、埃《ほこり》で白くなった草鞋《わらじ》をはいて、さもつかれはてたというふうの旅人が、ひょっくり向こうの路から出て来て、「羽生の町へはまだよほどありますか」と問うた。
「もう、じきです、向こうに見える森がそうです」
旅人はかれと並んで歩きながら、なおいろいろなことをきいた。これから川越を通って八王子のほうへ行くのだという。なんでも遠いところから商売をしながらやって来たものらしい。そのことばには東北地方の訛《なまり》があった。
「この近所に森という在郷《ざいごう》がありますか」
「知りませんな」
「では高木《たかき》というところは」
「聞いたようですけど……」
やはりよくは知らなかった。旅人は今夜は羽生の町の梅沢という旅店《りょてん》にとまるという。清三は町にはいるところで、旅店へ行く路を教えてやって、田圃《たんぼ》の横路を右に別れた。見ていると、旅人はさながら疲れた鳥がねぐらを求めるように、てくてくと歩いて町へはいって行った。何故《なにゆえ》ともなく他郷《たきょう》という感が激しく胸をついて起こった。かれも旅人、われも同じく他郷の人! こう思うと、涙がホロホロと頬《ほお》をつたって落ちた。
二十一
秋は日に日に深くなった。寺の境《さかい》にひょろ長い榛《はん》の林があって、その向こうの野の黄いろく熟した稲には、夕日が一しきり明るくさした。鴻《こう》の巣に通う県道には、薄暮《はくぼ》に近く、空車《からぐるま》の通る音がガラガラといつも高く聞こえる。そのころ機動演習にやって来た歩兵の群れや砲車の列や騎馬の列がぞろぞろと通った。林の角《かど》に歩兵が散兵線《さんぺいせん》を布《し》いていると思うと、バリバリと小銃の音が凄《すさ》まじく聞こえる。寺でも、庫裡《くり》と本堂に兵士が七八人も来て泊まった。裏の林には馬が二三十頭もつながれて、それに飲ませる水を入れた四斗桶がいくつとなく本堂の前の庭に並べられる。サアベルの音、靴《くつ》の音、馬のいななく声、にわかにあたりは騒々しくなった。夜は町の豪家の門《かど》に何中隊本部と書いた寒冷紗《かんれいしゃ》の布《ぬの》が白く闇に見えて、士官や曹長が剣を鳴らして出たりはいったりした。
それが一日二日で通過してしまうと、町はしんとしてもとの静謐《せいひつ》にかえった。清三は二三日前の土曜日に例のごとく行田に行ったが、帰って来て、日記に、「母はつとめて言はねど、父君のさてはなんとか働きたまはば、わが一家は平和ならましを。この思ひ、いつも帰行《きこう》の時に思ひ浮かばざることなし」と書いた。怠《なま》けがちに日を送って、母親にのみ苦労をかける父親がかれにははがゆくってしかたがなかった。かれは病身でそして思いやりの深い母親に同情した。顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に即効紙《そっこうし》をはって、夜更《よふ》けまで賃仕事にいそしむ母親の繰《く》り言《ごと》を聞くと、いかなる犠牲も堪《た》えなければならぬといつも思う。時には、父親に内所《ないしょ》で、財布の底をはたいて小遣いを置いて来ることなどもある。それを父親は母親から引き出してつかった。
二三日前に帰った時にも、あっちこっちに一円二円と細《こま》かい不義理ができて困っているという話を母親から聞いた。
「行田文学」は四号で廃刊《はいかん》するという話があった、石川はせっかく始めたことゆえ、一二年は続けたいが、どうも費用がかさんで、印刷所に借金ができるようでも困るからという。郁治はどうせそんな片々《へんぺん》たるものを出したって、要するに道楽に過ぎんのだからやめてしまうほうが結局いいしかただと賛成する。清三はせっかく四号までだしたのだから、いま少し熱心に会員を募《つの》ったり寄付をしてもらったりしたならば、続刊の計画がたつだろうと言ってみたがだめだった。日曜日には荻生君が熊谷から来るのを待ち受けて、いっしょに羽生へ帰って来た。荻生さんは心配のなさそうな顔をしておもしろい話をしながら歩いた。途中で、テバナをかんで見せた。それがいかにも巧みなので、清三は体《からだ》をくずして笑った。清三は荻生さんの無邪気でのんきなのがうらやましかった。
朝霧の深い朝もあった。野は秋ようやく逝《ゆ》かんとしてまた暑きこと一二日、柿赤く、蜜柑《みかん》青しと、日記に書いた日もあった。秋雨《あきさめ》はしだいに冷やかに、漆《うるし》のあかく色づいたのが裏の林に見えて、前の銀杏《いちょう》の実は葉とともにしきりに落ちた。掃《は》いても掃いても黄いろい銀杏の葉は散って積もる。清三は幼いころ故郷
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