《こんじき》の色弱し。木犀《もくせい》の衰へたる香《におい》かすかに匂ふ。夜、新聞を見、行田への荷物包む。星かくれて、銀杏《いちょう》の実落つること繁し。栗の林に野分《のわき》たちて、庫裡《くり》の奥庭に一葉ちるもさびしく、風の音にコホロギの声寒し。
十日。
朝、行田に蚊帳《かや》を送り、夕方着物を受け取る。小畑より久しぶりにて同情の手紙を得たり。曰く「この秋の君の心! 思へばありしことども思ひ偲ばる。『去年《こぞ》冬の、今年の春!』といふ君が言葉にも千万無量の感湧き出《い》でて、心は遠く成願寺のあたり」云々。夜、星清くすんで南に低く飛ぶもの二つ、小畑に返事を書く。曰く、「愚痴《ぐち》はもうやめた。言ふまい、語るまい、一人にて泣き、一人にてもだえん。」
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 清三はこのごろの日記の去年の冬、今年の春にくらべて、いかにその調子が変わったかを考えざるを得なかった。去年の冬はまだ世の中はこうしたものだとは知らなかった。美しいはでやかな希望も前途に輝いていた。歌留多《かるた》を取っても、ボールを投げてもおもしろかった。親しい友だちの胸に利己のさびしい影を認めるほど眼も心もさめておらなかった。卒業の喜び、初めて世に出ずる希望――その花やかな影はたちまち消えて、秋は来た、さびしい秋は来た。裏の林に熟《う》み割れた栗のいがが見えて、晴れた夜は野分がそこからさびしく立った。長い廊下の縁は足の裏に冷やかに、本堂のそばの高い梧桐《あおぎり》からは雨滴《あまだ》れが泣くように落ちた。

       二十

 男生徒女生徒|打《う》ち混ぜて三十名ばかり、田の間の細い路《みち》をぞろぞろと通る。学校を出る時は、「亀よ亀さんよ」をいっせいにうたってきたが、それにもあきて、今ではてんでに勝手な真似《まね》をして歩いた。何かべちゃべちゃしゃべっている女生徒もあれば、後ろをふり返って赤目《あかんべ》をしてみせている男生徒もある。赤いマンマという花をつまんで列におくれるものもあれば、蜻蛉《とんぼ》を追いかけて畑の中にはいって行くものもある。尋常二年級と三年級、九歳から十歳までのいたずら盛り、総じて無邪気に甘えるような挙動を、清三は自己の物思いの慰藉《いしゃ》としてつねにかわいがったので、「先生――林先生」と生徒は顔を見てよくそのあとを追った。
 学校から村を抜けて、発戸《ほっと》に出る。青縞《あおじま》を織る機《はた》の音がそこにもここにも聞こえる。色の白い若い先生をわざわざ窓から首を出して見る機織女《はたおりおんな》もある。清三は袴を着けて麦稈《むぎわら》帽子をかぶって先に立つと、関さんは例の詰襟の汚れた白い夏服を着て生徒に交って歩いた。女教師もその後ろからハンケチで汗を拭き拭きついてきた。秋はなかば過ぎてもまだ暑かった。発戸の村はずれの八幡宮に来ると、生徒はばらばらとかけ出してその裏の土手にはせのぼった。先に登ったものは、手をあげて高く叫んだ。ぞろぞろとついて登って行って手をあげているさまが、秋の晴れた日の空気をとおしてまばらな松の間から見えた。その松原からは利根川の広い流れが絵をひろげたように美しく見渡された。
 弥勒《みろく》の先生たちはよく生徒を運動にここへつれて来た。生徒が砂地の上で相撲《すもう》をとったり、叢《くさむら》の中で阜斯《ばった》を追ったり、汀《みぎわ》へ行って浅瀬でぼちゃぼちゃしたりしている間を、先生たちは涼しい松原の陰で、気のおけない話をしたり、新刊の雑誌を読んだり、仰向《あおむ》けに草原の中に寝ころんだりした。平凡なる利根川の長い土手、その中でここ十町ばかりの間は、松原があって景色が眼覚めるばかり美しかった。ひょろ松もあれば小松もある。松の下は海辺にでも見るようなきれいな砂で、ところどころ小高い丘と丘との間には、青い草を下草《したぐさ》にした絵のような松の影があった。夏はそこに色のこいなでしこが咲いた。白い帆がそのすぐ前を通って行った。
 清三はここへ来ると、いつも生徒を相手にして遊んだ。鬼事《おにごと》の群れに交って、女の生徒につかまえられて、前掛けで眼かくしをさせられることもある。また生徒を集めていっしょになって唱歌をうたうことなどもあった。こうしている間はかれには不平も不安もなかった。自己の不運を嘆くという心も起こらなかった。無邪気な子供と同じ心になって遊ぶのがつねである。しかし今日はどうしてかそうした快活な心になれなかった。無邪気に遊び回る子供を見ても心が沈んだ。こうして幼い生徒にはかなき慰藉《いしゃ》を求めている自分が情けない。かれは松の陰に腰をかけてようようとして流れ去る大河《たいか》に眺めいった。
 一日《あるひ》、学校の帰りを一人さびしく歩いた。空は晴れて、夕暮れの空気の影《かげ》濃《こまや》
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