みると、そこには誰もいないで、笑い声が湯殿のほうから聞こえた。何気なしに行ってのぞいてみると、夫妻は小さい据風呂《すえふろ》に目白の推《お》し合いのようにしてはいっている。主僧は平気で笑って、「これはえらいところを見られましたな」と言った。清三にはこの滑稽な事実が、単に滑稽な事実ではなくって、それを通して主僧の生活の状態と夫妻の間柄とがいっそうあきらかに見えたような気がした。こうして無意味に――若い時の希望も何もかも捨ててしまって、ただ目の前の運命に服従して、さて年を過ごして、歴代の住職の墓の中に! 清三は自分の運命に引きくらべてみた。
 時には一葉舟《ひとはぶね》の詩人を学んで、「雲」の研究をしてみようなどと思いたつこともあった。信濃《しなの》の高原に見るような複雑した雲の変化を見ることはできなかったが、ひろい関東平野を縁取《ふちど》った山々から起こる雲の色彩にはすぐれたものが多かった。裏に出ると、浅間の煙《けむり》が正面に見えて、その左に妙義がちょっと頭を出していて、それから荒船《あらふね》の連山、北甘楽《きたかんら》の連山、秩父の連山が波濤《はとう》のように連なりわたった。両神山《ふたかみやま》の古城址《こじょうし》のような形をした肩のところに夕日は落ちて、いつもそこからいろいろな雲がわきあがった。右には赤城から日光連山が環《わ》をなして続いた。秩父の雲の明色の多いのに引きかえて、日光の雲は暗色《あんしょく》が多かった、かれは青田を越えて、向こうの榛《はん》の並木のあたりまで行った。野良《のら》の仕事を終わって帰る百姓は、いつも白地の単衣《ひとえ》を着て頭の髪を長くした成願寺の教員さんが手帳を持ちながらぶらぶら歩いて行くのに邂逅《でっくわ》して挨拶をした。時には田の畔《あぜ》にたたずんで何かしきりに手帳に書きつけているのを見たこともあった。清三の手帳には日付と時刻とその時々に起こったさまざまの雲の状態と色彩と、時につれて変化して行く暮雲《ぼうん》のさまとがだんだんくわしく記された。
「平原の雲の研究」という文をかれは書き始めた。
 彼岸の中日《ちゅうにち》には、その原稿がもうたいていできかかっていた。その日は本堂の如来様にはめずらしく蝋燭《ろうそく》がともされて、和尚さんが朝のうち一時間ほど、紫の衣に錦襴《きんらん》の袈裟《けさ》をかけて読経《どきょう》をした。庭の金木犀《きんもくせい》は風につれてなつかしい匂いを古びた寺の室《へや》に送る。参詣者は朝からやってきて、駒下駄の音がカラコロと長い鋪石《しきいし》道に聞こえた。墓に詣《もう》ずる人々は、まず本堂に上がって如来様を拝み、庫裡に回って、そこに出してある火鉢で線香に火をつけ、草の茂った井戸から水を汲んで、手桶を下げて墓へ行った。寺では二三日前から日傭《ひよう》取りを入れて掃除をしておいたので、墓地はきれいになっていて、いつものように樒《しきみ》の枯葉や犬の糞《くそ》などが散らかっていなかった。参詣するもののうちには、町の豪家の美しい少女もいれば、島田に結った白粉のなかばはげた田舎娘もあった。清三はかみさんからもらった萩の餅に腹をふくらし、涼しい風に吹かれながら午睡《ひるね》をした。夢《ゆめ》うつつの中にも鐘の音、駒下駄《こまげた》の音、人の語り合う声などがたえず聞こえた。
 結願《けちがん》の日から雨がしとしとと降った。さびしい今年の秋が来た。
 かれのこのごろの日記には、こんなことが書いてある。
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十月一日。
去月《きょげつ》二十八日より不着《ふちゃく》の新聞今日一度に来る。夜、善綱氏《ぜんこうし》(小僧)に算術教ふ。エノックアーデン二十|頁《ページ》のところまで進む。このごろ日脚《ひあし》西に入り易く、四時過ぎに学校を出《い》で、五時半に羽生に着けば日まったく暮る。夜、九時、湯に行く。秋の夜の御堂《みどう》に友の涙《なみだ》冷《ひや》やかなり。
二日。晴。
馴《な》れし木犀《もくせい》の香やうやく衰へ、裏の栗林に百舌鳥《もず》なきしきる。今日より九時始業、米ずしより夜油を買ふ。
三日。
モロコシ畑の夕日に群れて飛ぶあきつ赤し、熊谷の小畑《おばた》に手紙出す、夕波の絵かきそへて。
四日。晴。
久しく晴れたる空は夜に入りて雨となりぬ。裏の林に、秋雨《あきさめ》の木《こ》の葉うつ音しずか。故郷の夢見る。
五日。土曜日。
雨をつきて行田に帰る。
六日。
一日を楽しき家庭に暮らす。小畑と小島に手紙出す。夜、細雨《さいう》静かなり。
七日。
朝早く行く。稲、黄いろく色づき、野の朝の雨|斜《ななめ》なり。夜は学校にとまる。
八日。
雨はげしく井戸端の柳の糸乱る。今宵も学校にとまる。
九日。
早く帰る。秋雨やうやく晴れて、夕方の雲風に動くこと早く夕日|金色
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