赤城《あかぎ》から妙義に遊んだ。
旅から帰って来たのは八月の末であった。その時、美穂子は、すでに浦和の寄宿舎に帰っていた。行田から羽生、羽生から弥勒《みろく》という平凡な生活はまた始まった。
十九
学校には新しいオルガンが一台|購《か》ってあった。初めての日はちょうど日曜日で、校長も大島さんも来なかった。その夜は宿直室にさびしく寝た。盂蘭盆《うらぼん》を過ぎたあとの夜は美しく晴れて、天の川があきらかに空に横《よこ》たわっている。垣にはスイッチョが鳴いて、村の子供らのそれをさがす提灯《ちょうちん》がそこにもここにも見える。日中は暑いが、夜は露が草の葉に置いて、人の話声がどこからともなく聞こえた。
初めの十日間は授業は八時から十時、次の十日間は十二時まで、それから間もなく午後二時の退校となる。もうそのころは秋の気はあたりに満ちて、雨の降る日など単衣《ひとえ》一枚では冷やかに感じられた。物思うかれの身に月日は早くたった。
高等学校の入学試験を受けに行った小島は第四に合格して、月の初めに金沢へ行ったという噂《うわさ》を聞いたが、得意の文句を並べた絵葉書はやがてそこから届いた。その地にある兼《けん》六公園の写真はかれの好奇心をひくに十分であった。友の成功を祝した手紙を書く時、かれは机に打っ伏して自己の不運に泣かざるを得なかった。
本堂の机の上には乱れ髪、落梅集《らくばいしゅう》、むさし野、和尚《おしょう》さんが早稲田に通うころよんだというエノックアーデンの薄い本がのせられてあった。かれは、「響《ひびき》りんりん」という故郷を去るの歌をつねに好んで吟誦《ぎんしょう》した。その調子には言うに言われぬ悲哀がこもった。庫裡《くり》の玄関の前に、春は芍薬《しゃくやく》の咲く小さい花壇があったが、そこにそのころ秋海棠《しゅうかいどう》の絵のようにかすかに紅《くれない》を見せている。中庭の萩は今を盛りに咲き乱れた。
夜ごとの月はしだいにあきらかになった。墓地と畠とを縁取《へりど》った榛《はん》の並木が黒く空に見えて、大きな芋《いも》の葉にはキラキラと露が光った。
夕飯のあとに、清三は墓地を歩いてみることなどもあった。新墓《にいつか》の垣に紅白の木槿《もくげ》が咲いて、あかい小さい蜻蛉《とんぼ》がたくさん集まって飛んでいる。卒塔婆《そとば》の新しいのに、和尚さんが例の禿筆《ちびふで》をとったのがあちこちに立っている。土饅頭の上に茶碗が水を満たして置いてあって、線香のともったあとの白い灰がありありと残って見えた。花立てにはみそ萩や女郎花《おみなえし》などが供えられてある。古い墓も無縁の墓もかなり多かった。一隅《かたすみ》には行き倒れや乞食の死んだのを埋葬したところもあった。清三は時には好奇《ものずき》に碑の文などを読んでみることがある。仙台で生まれて、維新の時には国事に奔走《ほんそう》して、明治になってからここに来て、病院を建てて、土地の者に慈父のように思われたという人の石碑《せきひ》もあった。製糸工場の最初の経営者の墓は、花崗石《みかげいし》の立派なもので、寄付金をした有志の姓名は、金文字で、高い墓石に刻《ほ》りつけられてあった。それから日清の役《えき》にこの近在の村から出征して、旅順《りょじゅん》で戦死した一等卒の墓もあった。
この墓地とはまったく離れて、裏の林の奥に、丸い墓石が数多く並んでいる。これは歴代の寺の住職の墓である。杉の古樹《こじゅ》の陰に笹《ささ》やら楢《なら》やらが茂って、土はつねにじめじめとしていた。晴れた日には、夕方の光線が斜《なな》めに林にさし透《とお》って、向こうに広い野の空がそれとのぞかれた。雨の日には、梢《こずえ》から雨滴《あまだ》れがボタボタ落ちて、苔蘚《こけ》の生えた坊主の頭顱《あたま》のような墓石《はか》は泣くように見られた。ここの和尚さんもやがてはこの中にはいるのだなどと清三は考えた。肥った背の高いかみさんと田舎《いなか》の寺に埋めておくのは惜しいような学問のある和尚さんとが、こうした淋しい平凡な生活を送っているのも、考えると不思議なような気がする。ふと、二三日前のことを思い出して、かれは微笑した。かれは日記に軽い調子で、
「夕方知らずして、主《しゅ》の坊が Wife とともに湯の小さきに親しみて(?)入れるを見て、突然のことに気の毒にもまた面喰《めんくら》はされつ」と書いたのを思い出した。湯殿は庫裡《くり》の入り口からはいられるようになっていた。和尚さんは二月ばかり前に、葬儀に用いる棒や板などのたくさん本堂にあったのを利用して大工を雇って来て、そこに格好の湯殿を作って、丸い風呂を据えて湯を立てた。煙《けむり》が勝手から庫裡までなびいた。その日は火をもらおうと思って、茶の間へ行って
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