によこされて、それから七八年の辛抱、その艱難《かんなん》は一通りでなかった。玄関のそばの二畳にいて、この成願寺の住職になることをこのうえもない希望のように思っていた。今でも成願寺住職|実円《じつえん》と書いた落書きがよく見ると残っている。主僧は酔って「衆寮《しゅうりょう》の壁《かべ》」というついこのごろ作った新体詩を歌って聞かせた。
「どうです、君も何か一つ書いてみませんか」
 こう言って和尚さんは勧《すす》めた。
 清三の胸はこうした言葉にも動かされるほど今宵は感激していた。何か一つ書いてみよう。かれはエルテルを書いてその実際の苦痛を忘れたゲエテのことなどを思い出した。自分には才能という才能もない。学問という学問もない。友だちのように順序正しく修業をする境遇にもいない。人なみにしていては、とてもだめである。かれは感情を披瀝《ひれき》する詩人としてよりほかに光明を認め得るものはないと思った。
「一つ運だめしをやろう。この暑中休暇に全力をあげてみよう。自分の才能を試みてみよう」
 かれは和尚さんから、種々の詩集や小説を借りることにした。翌日学校から帰って来ると、和尚さんは東京の文壇に顔を出しているころ集めた本をなにかと持って来て貸してくれた。国民小説という赤い表紙の四六版の本の中には、「地震」と「うき世の波」と「悪因縁《あくいんえん》」という三編がある。それがおもしろいから読めと和尚さんは言った。「むさし野」という本もそのうちにあった。かれは「むさし野」に読みふけった。
 七月はしだいに終わりに近づいた。暑さは日に日に加わった。久しく会わなかった発戸《ほっと》の小学校の女教員に例の庚申塚《こうしんづか》の角《かど》でまた二三度|邂逅《かいこう》した。白地の単衣《ひとえもの》に白のリボン、涼しそうな装《なり》をして、微笑《ほほえみ》を傾けて通って行った。その微笑の意味が清三にはどうしてもわからなかった。学校では暑中休暇を誰もみんな待ちわたっている。暑い夏を葡萄棚《ぶどうだな》の下に寝て暮らそうという人もある。浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。旅に出ようとしているものもある。東京に用|足《た》しに行こうと企《くわだ》てているものもある、月の初めから正午《ひる》ぎりになっていたが、前期の日課点を調べるので、教員どもは一時間二時間を教室に残った。それに用のないものも、午《ひる》から帰ると途中が暑いので、日陰のできるころまで、オルガンを鳴らしたり、雑談にふけったり、宿直室へ行って昼寝をしたりした。清三は日課点の調べにあきて、風呂敷包みの中から「むさし野」を出して清新な趣味に渇《かっ》した人のように熱心に読んだ。「忘れ得ぬ人々」に書いた作者の感慨、武蔵野の郊外をザッと降って通る林の時雨《しぐれ》、水車《みずぐるま》の月に光る橋のほとりに下宿した若い教員、それらはすべて自分の感じによく似ていた。かれはおりおり本を伏せて、頭脳《あたま》を流れて来る感興にふけらざるを得なかった。
 三十日の学課は一時間で終わった。生徒を集めた卓《テーブル》の前で、「皆さんは暑中休暇を有益に使わなければなりません。あまりに遊び過ごすと、せっかくこれまで教わったことをみんな忘れてしまいますから、毎日一度ずつは、本を出してお復習《さらえ》をなさい。それから父さん母さんに世話をやかしてはいけません。桃や梨や西瓜《すいか》などをたくさん食べてはいけません。暑いところを遊んで来て、そういうものをたくさんに食べますと、お腹《なか》をこわすばかりではありません。恐ろしい病気にかかって、夏休みがすんで、学校に来たくッても来られないようになります。よく遊び、よく学び、よく勉めよ。本にもそう書いてありましょう。九月の初めに、ここで先生といっしょになる時には、誰が一番先生の言うことをよく守ったか、それを先生は今から見ております」こう言って、清三は生徒に別れの礼をさせた。お下げに結《ゆ》った女生徒と鼻を垂《た》らした男生徒とがぞろぞろと下駄箱のほうに先を争って出て行った、いずれの教室にも同じような言葉がくり返される。女教員は菫《すみれ》色の袴《はかま》をはっきりと廊下に見せて、一二、一二をやりながら、そこまで来て解散した。校庭には九|連草《れんそう》の赤いのが日に照らされて咲いていた。紫陽花《あじさい》の花もあった。

       十八

 暑中休暇はいたずらに過ぎた。自己の才能に対する新しい試みもみごとに失敗した。思いは燃えても筆はこれに伴《ともな》わなかった。五日ののちにはかれは断念して筆を捨てた。
 寺にいてもおもしろくない。行田に帰っても、狭い家は暑く不愉快である。それに、美穂子が帰っているだけそれだけ、そこにいるのが苦痛であった。かれは一人で
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