、君」
「でも、今日夏帽子を買うから」
「買うまでかぶっていたまえ、おかしいよ」
「なアに、すぐそこで買うから」
「足元を見られて高く売りつけられるよ」
「なアに大丈夫だ」
 で、日のカンカン照りつける町の通りを清三は帽子もかぶらずに歩いた。通りに硝子《がらす》戸をあけ放した西洋雑貨商があって、毛糸や麦稈《むぎわら》帽子が並べてある。
 清三は麦稈帽子をいくつか出させて見せてもらった。十六というのがちょうどかれの頭に合った。一円九十銭というのを六十銭に負けさせて買った。町の通りに新しい麦稈帽子がきわだって日にかがやいた。

       十七

 美穂子は暑中休暇で帰って来た。
 その家へ行く路には夏草が深く茂っていた。里川の水は碧《あお》くみなぎって流れている。蘆《あし》の緑葉《みどりば》に日影がさした。
 家の入り口には、肌襦袢《はだじゅばん》や腰巻や浴衣《ゆかた》が物干竿《ものほしざお》に干しつらねてある。郁治は清三とつれだって行った。
 美穂子は白絣《しろがすり》を着ていた。帯は白茶と鴬茶《うぐいすちゃ》の腹合わせをしていた。顔は少し肥えて、頬のあたりがふっくりと肉づいた。髪は例の庇髪《ひさしがみ》に結《ゆ》って、白いリボンがよく似合った。
 ビールの空罎《あきびん》に入れられた麦湯が古い井字形《せいじがた》の井戸に細い綱でつるして冷やされてあった。井戸側には大きな葉の草がゴチャゴチャ生《は》えている。流しには菖蒲《しょうぶ》、萱《かや》などが一面にしげって、釣瓶《つるべ》の水をこぼすたびにしぶきがそれにかかる。二三日前までは老母が夕べごとにそこに出て、米かし桶の白い水を流すのがつねであったが、娘が帰って来てからは、その色白の顔がいつもはっきりと薄暮《はくぼ》の空気に見えるようになった。そのころには奥で父親の謡《うたい》がいつも聞こえた。
 美穂子は細い綱をスルスルとたぐった。ビールの罎《びん》がやがて手に来る。結《ゆ》わえた綱を解いて、それを勝手へ持って来て、土瓶に移して、コップ三つと、砂糖を入れた硝子器《うつわ》とを盆にのせて、兄の話している座敷へ持って行く。
「なんにも、ご馳走はございませんけど、……これは一日井戸につけておいたんですから、お砂糖でも入れて召し上がって……」
 麦湯は氷のように冷えていた。郁治も清三も二三杯お代わりをして飲んだ。美穂子は兄のそばにすわって、遠慮なしにいろいろな話をした。
「寄宿生活はずいぶんたいへんでしょう」
 清三はこうきくと、
「えゝえゝ、ずいぶんにぎやかですよ。ほかの女学校などと違って、監督がむずかしいのですけど、それでもやっぱり……」
「女学校の寄宿舎なんて、それはたいへんなものさ。話で聞いてもずいぶん愛想《あいそ》がつきるよ」と北川は笑って、「やっぱり、男の寄宿とそうたいして違いはないんだね」
「まさか兄さん」
 と美穂子は笑った。
 その室《へや》には西日がさした。松の影が庭から縁側に移った。垣の外を荷車の通る音がする。
 この春と同じように、二人の友だちは家への帰途を黙って歩いた。言いたいことは郁治の胸にも清三の胸にも山ほどある。しかし二人ともそれに触れようとしなかった。城址《しろあと》の錆《さ》びた沼に赤い夕日がさして、ヤンマが蘆《あし》の梢《こずえ》に一疋、二疋、三疋までとまっている。子児《こども》が長いもち竿《ざお》を持って、田の中に腰までつかって、おつるみの蜻蛉《とんぼ》をさしていた。
 石橋近くに来た時、
「今年は夏休みをどうする……どこかへ行くかね?」
 郁治は突然こうたずねた。
「まだ、考えていないけれど、ことによると、日光か妙義に行こうと思うんだ。君は?」
「僕はそんな余裕はない。この夏は英語をいま少し勉強しなくっちゃならんから」
 美穂子がこの夏休暇をここに過ごすということがなんの理由もなしに清三の胸に浮かんで、妬《ねた》ましいような辛い心地がした。
 今夜は父母の家に寝て、翌朝早く帰ろうと思った。現に、郁治にもそう言った。けれど路の角《かど》で郁治と別れると、急に、ここにいるのがたまらなくいやになって、足元から鳥の立つように母親を驚かして帰途についた。明朝郁治がやって来て驚くであろうという一種|復仇《ふっきゅう》の快感と、束縛せられている力からまぬがれ得たという念と、たとえがたいさびしい心細い感とを抱いて、かれはその長い夕暮れの街道をたどった。
 寺に帰った時は日が暮れてからもう一時間ぐらいたった。和尚《おしょう》さんは庫裡《くり》の六畳の長火鉢のあるところで酒を飲んでいたが、つねに似ず元気で、「まア一杯おやんなさい」と盃《さかずき》をさして、冷やっこをべつに皿に分けて取ってくれた。今まで聞かなかった主僧の幼いころの話が出る。九歳の時、この寺の小僧
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