して来るころには、午飯《ひるめし》の支度がもうできていた。赤い襷《たすき》をかけた家《うち》の娘が茶湯台《ちゃぶだい》を運んで来た。肴《さかな》はナマリブシの固い煮付けと胡瓜《きゅうり》もみと鶏卵にささげの汁とであった。しかし人々にとっては、これでも結構なご馳走であった。校長は洋服の上衣もチョッキもネクタイもすっかり取って汚れ目の見える肌襦袢《はだじゅばん》一つになって、さも心地のよさそうな様子であぐらをかいていたが、
「みんな平《たい》らに、あぐらをかきたまえ。関君、どうです、服で窮屈《きゅうくつ》にしていてはしかたがない」こう言って笑って、「私が一つビールを奢《おご》りましょう。たまには愉快に話すのもようござんすから」
やがてビールが命ぜられる。
「姐《ねえ》さん、氷をブッカキにして持って来てくださいな」
娘はかしこまって下りて行く。校長が関さんのコップにつごうとすると、かれは手でコップの蓋《ふた》をした。
「一杯飲みたまえ、一杯ぐらい飲んだってどうもなりやしないから」
「いいえ。もうほんとうにたくさんです。酒を飲むと、あとが苦しくって……」
とコップをわきにやる。
「関君はほんとうにだめですよ」
と、言って、大島さんはなみなみとついだ自分の麦酒《びいる》を一|呼吸《いき》に飲む。
「弱卒《じゃくそつ》は困りますな」
こう言って校長は自分のになみなみと注《つ》いだ。泡が山をなして溢《こぼ》れかけるので、あわてて口をつけて吸った。娘がそこにブッカキを丼《どんぶり》に入れて持って来た。みんなが一つずつ手でつまんで麦酒《びいる》の中に入れる。酒を飲まぬ関さんも大きいのを一つ取って、口の中にほおばる。やがて校長の顔も大島さんの顔もみごとに赤くなる。
「講習会なんてだめなものですな」
校長の気焔《きえん》がそろそろ出始めた。
大島さんがこれに相槌《あいづち》をうった。各小学校の評判や年功加俸《ねんこうかほう》の話などが出る。郡視学の融通《ゆうづう》のきかない失策談が一座を笑わせた。けれど清三にとっては、これらの物語は耳にも心にも遠かった。年齢《とし》が違うからとはいえ、こうした境遇にこうして安んじている人々の気が知れなかった。かれは将来の希望にのみ生きている快活な友だちと、これらの人たちとの間に横たわっている大きな溝《みぞ》を考えてみた。
「まごまごしていれば、自分もこうなってしまうんだ!」
この考えはすでにいく度となくかれの頭を悩ました。これを考えると、いつも胸が痛くなる。いてもたってもいられないような気がする。小さい家庭の係累《けいるい》などのためにこの若い燃ゆる心を犠牲にするには忍びないと思う。この間も郁治と論じた。「えらい人はえらくなるがいい。世の中には百姓もあれば、郵便脚夫もある。巡査もあれば下駄の歯入《はい》れ屋もある。えらくならんから生きていられないということはない。人生はわれわれの考えているようなせっぱつまったものではない。もっと楽に平和に渡って行かれるものだ。うそと思うなら、世の中を見たまえ。世の中を……」こう言って清三は友の巧名心を駁《ばく》した。けれどその言葉の陰にはまるでこれと正反対の心がかくれていた。それだけかれは激していた。かれは泣きたかった。
それを今思い出した。「自分も世の中の多くの人のように、暢気《のんき》なことを言って暮らして行くようになるのか」と思って、校長の平凡な赤い顔を見た。
つい麦酒《びいる》を五六杯あおった。
青い田の中を蝙蝠傘《こうもりがさ》をさした人が通る、それは町の裏通りで、そこには路にそって里川が流れ、川楊《かわやなぎ》がこんもり茂っている。森には蝉《せみ》の鳴き声が喧《かまびす》しく聞こえた。
一時間たつと、三人はみんな倒れてしまった。校長は肱枕《ひじまくら》をして足を縮めて鼾《いびき》をかいているし、大島さんは仰向《あおむ》けに胸を露《あら》わに足をのばしているし、清三は赤い顔をして頭を畳につけていた。独《ひと》り関さんは退屈そうに、次の広間に行ってビラなどを見た。
三時過ぎに、清三が寺に帰って来ると、荻生君は風通《かぜとお》しのよい本堂の板敷きに心地よさそうに昼寝をしている。
午後の日影に剖葦《よしきり》がしきりに鳴いた。
十六
暑いある日の午後、白絣《しろがすり》に袴《はかま》という清三の学校帰りの姿が羽生の庇《ひさし》の長い町に見えた。今日月給が全部おりて、懐《ふところ》の財布が重かった。いま少し前、郵便局に寄って、荻生君に借りた五十銭を返し、途中で買って来たくず餅を出して、二人で茶を飲み飲み楽しそうに食った。「どうも、これも長々ありがとう」と言って、二月ほど前から借りていた鳥打《とりう》ち帽を取って返した。
「まだいいよ
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