と眉とをはっきりと見せて、愛嬌《あいきょう》のある微笑《びしょう》を口元《くちもと》にたたえていた。清三は読書につかれた時など、おりおりそれを出して見る。雪子と美穂子とをくらべてみることもある。このごろでは雪子のことを考えることも多くなった。その時はきっと「なぜああしらじらしい、とりすましたふうをしているんだろう、いま少し打ち解けてみせてもよさそうなものだ」と思う。郁治の手紙は小さい文箱《ふばこ》にしまっておいた。
 前の土曜日には、久しぶりで行田に帰った。小畑が熊谷からやって来るという便《たより》があったが、運わるく日曜が激しい吹き降りなので、郁治と二人|樋《とい》から雨滴《あまだ》れが滝のように落ちる暗い窓の下で暮らした。
 次の土曜日には、羽生の小学校に朝から講習会があった。校長と大島と関と清三と四人して出かけることになる。大きな講堂には、近在の小学校の校長やら訓導やらが大勢集まって、浦和の師範から来た肥った赤いネクタイの教授が、児童心理学の初歩の講演をしたり、尋常一年生の実地教授をしてみせたりした。教員たちは数列に並んで鳴りを静めて謹聴《きんちょう》している。志多見《したみ》という所の校長は県の教育界でも有名な老教員だが、銀のような白い髯《ひげ》をなでながら、切口上《きりこうじょう》で、義務とでも思っているような質問をした。肥った教授は顔に微笑をたたえて、一々ていねいにその質問に答える。十一時近く、それがすむと、今度は郁治の父親や水谷というむずかしいので評判な郡視学が、教授法についての意見やら、教員の心得についての演説やらをした。梅雨《つゆ》は二三日前からあがって、暑い日影《ひかげ》はキラキラと校庭に照りつけた。扇の音がパタパタとそこにも、ここにも聞こえる。女教員の白地に菫色《すみれいろ》の袴が眼にたって、額には汗が見えた。成願寺の森の中の蘆荻《ろてき》はもう人の肩を没するほどに高くなって、剖葦《よしきり》が時を得顔《えがお》にかしましく鳴く。
 講習会の終わったのはもう十二時に近かった。詰襟《つめえり》の服を着けた、白縞《しろじま》の袴に透綾《すきや》の羽織を着たさまざまの教員連が、校庭から門の方へぞろぞろ出て行く。校庭には有志の寄付した標本用の樹木や草花がその名と寄付者の名とを記した札をつけられて疎《まば》らに植えられてある。石榴《ざくろ》の花が火の燃えるように赤く咲いているのが誰の眼にもついた。木には黄楊《つげ》、椎《しい》、檜《ひのき》、花には石竹、朝顔、遊蝶花《ゆうちょうか》、萩《はぎ》、女郎花《おみなえし》などがあった。寺の林には蝉が鳴いた。
「湯屋で、一日遊ぶようなところができたって言うじゃありませんか、林さん、行ってみましたか」校門を出る時、校長はこう言った。
「そうですねえ、広告があっちこっちに張ってありましたねえ、何か浪花節《なにわぶし》があるって言うじゃありませんか」
 大島さんも言った。
 上町《かみまち》の鶴の湯にそういう催《もよお》しがあるのを清三も聞いて知っていた。夏の間、二階を明けっ放して、一日湯にはいったり昼寝でもしたりして遊んで行かれるようにしてある。氷も菓子も麦酒《びいる》も饂飩《うどん》も売る。ちょっとした昼飯ぐらいは食わせる準備《したく》もできている。浪花節も昼一度夜一度あるという。この二三日|梅雨《つゆ》があがって暑くなったので非常に客があると聞いた。主僧は昨日出かけて半日遊んで来て、
「どうせ、田舎のことだから、ろくなことはできはしないけれど、ちょっと遊びに行くにはいい。貞公《ていこう》、うまい金儲《かねもう》けを考えたもんだ」と前の地主に話していた。
「どうです、林さんに一つ案内してもらおうじゃありませんか。ちょうど昼時分で、腹も空《す》いている……」
 校長はこう言って同僚を誘った。みんな賛成した。
 上町《かみまち》の鶴の湯はにぎやかであった。赤いメリンスの帯をしめた田舎娘が出たりはいったりした。あっちこっちから贈《おく》ったビラ[#「ビラ」に傍点]がいっぱいに下げてあって、貞《てい》さんへという大きな字がそこにもここにも見えた。氷見世《こおりみせ》には客が七八人もいて、この家のかみさんが襷《たすき》をかけて、汗をだらだら流して、せっせと氷をかいている。
 先生たちは二階に通った。幸いにして客はまだ多くなかった。近在の婆さんづれが一組、温泉にでも来たつもりで、ゆもじ一つになって、別の室《へや》にごろごろしていた。八畳の広間には、まんなかに浪花節を語る高座《こうざ》ができていて、そこにも紙や布《ぬの》のビラ[#「ビラ」に傍点]がヒラヒラなびいた。室は風通しがよかった。奥の四畳半の畳は汚ないが、青田が見通しになっているので、四人はそこに陣取った。
 一風呂はいって、汗を流
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