彼奴等《きゃつら》のように校長になるのを唯《ゆい》一の目的に一生小学校に勤めている人間とは種類が違うのだと思うと、べつにヤキモキする必要もなかった。校長もどっちかといえば、気が小さく神経過敏に過ぎるのがいやだが、しかしがいして温良な君子で、わる気というようなところは少しもなかった。関さんは例の通りの好人物、大島さんは話し好きの合い口――清三にとってこの小学校はあまりいごこちの悪いほうではなかった。
清三は一人でよくオルガンをひいた。型の小さい安いオルガンで、音もそうたいしてよくはなかったが、みずから好奇《ものずき》に歌などを作って、覚束《おぼつか》ない音楽の知識で、譜を合わせてみたりなんかする。藤村詩集にある「海辺の曲」という譜のついた歌はよく調子に乗った。それから若菜集の中の好きな句を選んで譜をつけてひいてもみた。梅雨《つゆ》の降りしきる夕暮れの田舎道、小さなしんとした学校の窓から、そうしたさまざまの歌がたえず聞こえたが、しかし耳を傾けて行く旅客もなかった。
清三の教える室《へや》の窓からは、羽生から大越《おおごえ》に通う街道が見えた。雨にぬれて汚ない布《ぬの》を四面に垂《た》れた乗合馬車がおりおり喇叭《らっぱ》を鳴らしてガラガラと通る。田舎娘が赤い蹴出《けだ》しを出して、メリンスの帯の後ろ姿を見せて番傘をさして通って行く。晴れた日には、番台を頭の上にのせて太鼓をたたいて行くあめ屋、夫婦づれで編笠《あみがさ》をかぶって脚絆《きゃはん》をつけて歩いて行くホウカイ節《ぶし》、七色の護謨風船《ごむふうせん》を飛ばして売って歩く爺《おやじ》、時には美しく着飾った近所の豪家の娘なども通った。県庁の役人が車を五六台並べて通って行った時には、先生も生徒もみんな授業をよそにして、その威勢のいいのにみとれていた。
清三の父親は、どうかすると、商売のつごうで、この近所まで来ることがある。縞《しま》の単衣《ひとえ》に古びた透綾《すきや》の夏羽織を着て、なかばはげた頭には帽子もかむらず、小使部屋からこっそりはいってきて、「清三はいましたか」と聞いた。初めはさすがにこうした父親を同僚に見られるのを恥ずかしく思ったが、のちにはなれて、それほどいやとも思わなくなった。近所に用事が残っているというので、清三は寺に帰るのをやめて、親子いっしょに煎餅蒲団《せんべいぶとん》にくるまって宿直室に寝ることなどもあった。
その時はきっと二人して手拭いを下げて前の洗湯に行く。小川屋から例の娘が弁当をこしらえて持って来る。食事がすむと、親子は友だちのように睦《むつ》まじく話した。家の困る話なども出た。ありもせぬ財布から五十銭借りられて行くことなどもある。
七月にはいっても雨は続いて降った。晴れ間には日がかっと照って、鼠《ねずみ》色の雲の絶え間から碧《みどり》の空が見える。畑には里芋の葉が大きくなり、玉蜀黍《とうもろこし》の広葉がガサガサと風になびいた。熊谷の小島は一高の入学試験を受けに東京に出かけたが、時々絵葉書で状況を報じた。英語がむずかしかったことなどをも知らせて来た。郵便|脚夫《きゃくふ》は毎日雨にぬれて山門から本堂にやって来る。若い心にはどのようなことでもおもしろい種になるので、あっちこっちから葉書や手紙が三四通は必ず届いた。喝《かつ》!――と一字書いた端書《はがき》があるかと思うと、蕎麦屋《そばや》で酒を飲んで席上で書いた熊谷の友だちの連名の手紙などもある。石川からは、相変わらずの明星攻撃、文壇照魔鏡《ぶんだんしょうまきょう》という渋谷の詩人夫妻の私行をあばいた冊子《さっし》をわざと送り届けてよこした。中にも郁治から来たのが一番多かった。恋の悩みは片時《かたとき》もかれをして心を静かならしめることができなかった。郁治はある時は希望に輝き、ある時は絶望にもだえ、ある時は自己の心の影を追って、こうも思いああも思った。清三の心もそれにつれて動揺せざるを得なかった。自己の失恋の苦痛を包むためには、友の恋に対する同情の文句がおのずから誇大的にならざるを得なかった。――独りもだゆるの悲哀は美しきかな、君が思ひに泣かぬことはあらじ――わざと和文調に書いて、末に、「この子もと罪のきづなのわなは知らず迷うて来しを捕はれの鳩」という歌を書きなどした。浦和の学校にいる美穂子の写真が机の抽斗《ひきだ》しの奥にしまってあった。雪子といま一人きよ子という学校友だちと三人して撮《うつ》した手札形で、美穂子は腰かけて花を持っていた。それを雪子のアルバムからもらおうとした時、雪子は、「それはいけませんよ。変なふうに写っているんですもの」と言って容易にそれをくれると言わなかった。雪子は被皮《ひふ》を着て、物に驚いたような頓狂《とんきょう》な顔をしていた。それに引きかえて、美穂子は明るい眼
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