はあるし、小島は高等学校の入学試験をうけるのでこのごろは忙しく暮らしていると言って来るし、北川は士官学校にはいる準備のために九月には東京に出ると言っているし、誰とて遊んでいるものはなかった。清三もこれに励まされて、いろいろな書《しょ》を読んだ。主僧に頼んで、英語を教えてもらったり、その書庫《ほんばこ》の中から論理学や哲学史などを借りたりした。机のまわりには、文芸倶楽部や明星や太陽があるかと思うと、学校教授法や通俗心理学や新地理学や、代数幾何の書などが置かれてある。主僧が早稲田に通うころ読んだというシェークスピアのロメオやテニソンのエノックアーデンなどもその中に交っていた。
若いあこがれ心は果てしがなかった。瞬間ごとによく変わった。明星をよむと、渋谷の詩人の境遇を思い、文芸倶楽部をよむと、長い小説を巻頭に載せる大家を思い、友人の手紙を見ると、しかるべき官立学校に入学の計画がしてみたくなる。時には、主僧にプラトンの「アイデア」を質問してプラトニックラヴなどということを考えてみることもあった。「行田文学」にやる新体詩も、その狭い暑苦しい蚊帳《かや》の中で、外のランプの光が蒼《あお》い影をすかしてチラチラする机の上で書いた。
学校の校長は、検定試験を受けることをつねにすすめた。「資格さえあれば、月給もまだ上げてあげることができる。どうです、林さん、わけがないから、やっておきなさい!」と言った。
このごろでは二週間ぐらい行田に帰らずにいることがある。母が待っているだろうとは思うが、懐《ふところ》が冷やかであったり、二里半を歩いて行くのがたいぎであったり、それよりも少しでも勉強しようと思ったりして、つねに寺の本堂の一間に土曜日曜を過ごした。しかしこれといって、勉強らしい勉強をもしなかった。土曜日には小畑が熊谷からきて泊まって行った。郁治が三日ぐらい続けて泊まって行くこともあった。それに、荻生君は毎日のようにやって来た。学校から帰ってみると、あっちこっちを明《あ》けっ放《ぱな》して顔の上に団扇《うちわ》をのせて、いい心地をして昼寝をしていることもある。かれは郵便局の閑《ひま》な時をねらって、同僚にあとを頼んで、なんぞといっては、よく寺に遊びに来た。
若い二人はよく菓子を買って来て、茶をいれて飲んだ。くず餅、あんころ、すあまなどが好物で、月給のおりた時には、清三はきっと郵便局に寄って、荻生君を誘って、角《かど》の菓子屋で餅菓子を買って来る。三度に一度は、「和尚《おしょう》さん、菓子はいかが」と庫裡《くり》に主僧を呼びに来る。清三の財布に金のない時には荻生君が出す。荻生君にもない時には、「和尚さんはなはだすみませんが、二三日のうちにおかえししますから、五十銭ほど貸してください」などと言って清三が借りる。不在に主僧がその室《へや》に行ってみると、竹の皮に食い余《あま》しの餅菓子が二つ三つ残って、それにいっぱいに蟻《あり》がたかっていることなどもあった。
梅雨《つゆ》の間は二里の泥濘《どろ》の路《みち》が辛かった。風のある日には吹きさらしの平野《へいげん》のならい、糸のような雨が下から上に降って、新調の夏羽織も袴《はかま》もしどろにぬれた。のちにはたいてい時間を計って行って、十銭に負けてもらって乗合馬車に乗った。ある日、その女も同じ馬車に乗って発戸河岸《ほっとがし》の角《かど》まで行った。その女というのは、一月ほど前から、町の出《で》はずれの四辻《よつつじ》でよく出会った女で、やはり小学校に勤める女教員らしかった。廂髪《ひさしがみ》に菫色《すみれいろ》の袴をはいて海老茶《えびちゃ》のメリンスの風呂敷包みをかかえていた。その四辻には庚申塚《こうしんづか》が立っていた。この間郁治といっしょに弥勒《みろく》に行く時にも例のごとくその女に会った。
「どうしてああいう素振《そぶ》りをするのか僕にはわからんねえ」と清三が笑いながら言うと、「しっかりしなくっちゃいかんよ、君」と郁治は声をあげて笑った。その時、どこに勤めるのだろうという評判をしたが、馬車にいっしょに乗り合わせて、発戸《ほっと》にある井泉村《いずみむら》の小学校に勤める人だということがわかった。色の白い鼻のたかい十九ぐらいの女であった。
雨の盛んに降る時には、学校の宿直室に泊まることもあった。学校に出てから、もう三月にもなるのでだいぶ教師なれがして、郡視学に参観されても赤い顔をするような初心《うぶ》なところもとれ、年長の生徒にばかにされるようなこともなくなった。行田や熊谷の小学校には、校長と教員との間にずいぶんはげしい暗闘があるとかねて聞いていたが、弥勒のような田舎《いなか》の学校には、そうしたむずかしいこともなかった。師範出の杉田というのがいやにいばるのが癪《しゃく》にさわるが、自分は
前へ
次へ
全88ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング