た溝《みぞ》を前にした荒壁の崩れかけた家もあった。鶏の声がところどころにのどかに聞こえる。街道におろし菓子屋が荷を下《おろ》していると、髪をぼうぼうさせた村の駄菓子屋のかみさんが、帯もしめずに出て来て、豆菓子や鉄砲玉をあれのこれのと言って入用だけ置かせている。
新郷《しんごう》へのわかれ路が近くなったころ、親子はこういう話をした。
「今度はいつ来るな、お前」
「この次の土曜日には帰る」
「それまでに少しはどうかならんか」
「どうだかわからんけれど、月末だから少しはくれるだろうと思うがね」
「少しでも手伝ってもらうと助かるがな」
清三は返事をしなかった。
やがて別れるところに来た。新郷へはこれから一田圃《ひとたんぼ》越せば行ける。
「それじゃ気をつけてな」
「ああ」
そこには庚申塚《こうしんづか》が立っていた。禿《はげ》頭の父親が猫背《ねこぜ》になって歩いて行くのと、茶色の帽子に白縞《しろじま》の袴《はかま》をつけた清三の姿とは、長い間野の道に見えていた。
九
その夜は役場にとまった。校長を訪ねたが不在であった。かれは日記帳に、「あゝわれつひに堪《た》へんや、あゝわれつひに田舎《いなか》の一教師に埋《うも》れんとするか。明日! 明日は万事定まるべし。村会の夜の集合! 噫《ああ》! 一語以て後日《ごじつ》に寄す」と書いた。なおくわしくその心持ちを書こうと思ったが、とうてい十分に書き現わし得ようとも思えぬので、記憶にとどめておくことにした。
翌日、朝九時に学校に行ってみた。けれどその平田というのがまだいたので、一まず役場に引き返した。一時間ばかりしてまた出かけた。
今度はもうその教員はいなかった。授業はすでに始まっていた。生徒を教える教員の声が各教場からはっきりと聞こえて来る。女教員のさえた声も聞こえた。清三の胸はなんとなくおどった、教員室にはいると、校長は卓《テーブル》に向かって、何か書類の調物《しらべもの》をしていたが、
「さアはいりたまえ」と言って清三のはいって来るのを待って、そばにある椅子《いす》をすすめた。
「お気の毒でした。ようやくすっかり決《き》まりました。なかなかめんどうでしてな……昨夜の相談でもいろいろの話が出ましてな」こう言って笑って、「どうも村が小さくって、それでやかましい学務委員がいるから困りますよ」
校長は言葉を
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