願ふ」と書いて、机の上に打《う》っ伏《ぷ》したことを思い出した。
 それから十日ほどたって、二人はその女の家を出て、士族屋敷《しぞくやしき》のさびしい暗い夜道《よみち》を通った。その日は女はいなかった。女は浦和に師範《しはん》学校の入学試験を受けに行っていた。
「どんなことでも人の力をつくせば、できないことはないとは思うけれど……僕は先天的にそういう資格がないんだからねえ」
「そんなことはないさ」
「でもねえ……」
「弱いことを言うもんじゃないよ」
「君のようだといいけれど……」
「僕がどうしたッていうんだ?」
「僕は君などと違ってラヴなどのできる柄《がら》じゃないからな」
 清三は郁治をいろいろに慰《なぐさ》めた。清三は友を憫《あわれ》みまた己《おのれ》を憫んだ。
 いろいろな顔と事件とが眼にうつっては消えうつっては消えた。路には榛《はん》のまばらな並木やら、庚申塚《こうしんづか》やら、畠《はた》やら、百姓家やらが車の進むままに送り迎えた。馬車が一台、あとから来て、砂煙《すなけむり》を立てて追《お》い越《こ》して行った。
 郁治の父親は郡視学であった。郁治の妹が二人、雪子は十七、しげ子は十五であった。清三が毎日のように遊びに行くと、雪子はつねににこにことして迎えた。繁子はまだほんの子供ではあるが、「少年世界」などをよく読んでいた。
 家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたので、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでも出たほうがいいという話になった。今度月給十一円でいよいよ羽生《はにゅう》在の弥勒《みろく》の小学校に出ることになったのは、まったく郁治の父親の尽力《じんりょく》の結果である。
 路のかたわらに小さな門があったと思うと、井泉村役場《いずみむらやくば》という札《ふだ》が眼にとまった、清三は車をおりて門にはいった。
「頼む」
 と声をたてると、奥から小使らしい五十男が出て来た。
「助役さんは出ていらっしゃいますか」
「岸野さんかな」
 と小使は眼をしょぼしょぼさせて反問《はんもん》した。
「ああ、そうです」
 小使は名刺と視学からの手紙とを受け取って引っ込んだが、やがて清三は応接室に導《みちび》かれた。応接室といっても、卓《テーブル》や椅子《いす》があるわけではなく、がらんとした普通の六畳で、粗末《そまつ》な瀬戸
前へ 次へ
全175ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング