に見せた。父親はさる出入り先から売却を頼まれたという文晃筆《ぶんちょうひつ》の山水を長押《なげし》にかけて、「どうも少し怪《あや》しいところがあるんじゃが……まアまアこのくらいならとにかく納まる品物だから」などとのんきに眺めていた。母親の手紙では、家計が非常に困っているような様子であったが、父親にはそんなふうも見えなかった。帰りに、五十銭貸せと言ったが、清三の財布には六十銭しかなかった。月末まで湯銭くらいなくては困ると言うので、二十銭だけ残して、あとをすっかり持たせてやった。父親は包みを背負って、なかばはげた頭を夕日に照らされながら、学校の門を出て行った。
金のない幾日間の生活は辛かったが、しかし心はさびしくなかった。朝に晩に夜にかれはその女の赤い襠裲姿《うちかけすがた》と、眉の間の遠い色白の顔とを思い出した。そのたびごとにやさしい言葉やら表情やらが流るるようにみなぎりわたった。その女は初会《しょかい》から清三の人並みすぐれた男ぶりとやさしいおとなしい様子とになみなみならぬ情を見せたのであるが、それが一度行き二度行くうちにだんだんとつのって来た。
清三は月末の来るのを待ちかねた。菓子を満足に食えぬのが中でも一番辛かった。机の抽斗《ひきだ》しの中には、餅菓子とかビスケットとか羊羹《ようかん》とかいつもきっと入れられてあったが、このごろではただその名残りの赤い青い粉《こ》ばかりが残っていた。やむなくかれは南京豆を一銭二銭と買ってくったり、近所の同僚のところを訪問して菓子のご馳走になったりした。のちには菓子屋の婆《ばばあ》を説《と》きつけて、月末払いにして借りて来た。
音楽はやはり熱心にやっていた。譜を集めたものがだいぶたまった。授業中唱歌の課目がかれにとって一番おもしろい楽しい時間で、新しい歌に譜を合わせたものを生徒に歌わせて、自分はさもひとかどの音楽家であるかのようにオルガンの前に立って拍子を取った。一人で室《へや》にいる時も口癖《くちぐせ》に唱歌の譜が出た。この間、女の室で酒に酔って、「響《ひびき》りんりん」を歌ったことが思い出された。女は黙ってしみじみと聞いていた。やがて「琵琶歌《びわうた》ですか、それは」と言った。信濃《しなの》の詩人が若々しい悲哀を歌った詩は、青年の群れの集まった席で歌われたり、さびしい一人の散歩の野に歌われたり、無邪気な子供らの前でオル
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